文明的欠乏について

 日経新聞に、以下のアンケート結果が載っているのをみた。こういう「現代の若い女性が結婚や仕事に対して抱える悩み」に関する記事や文章は、その分析レベルの高低を問わず、近ごろしばしば目にするが、そのたびに自分の頭の中には、同じような感慨が繰り返し浮かぶ。

 日韓の働く女性、結婚・出産… 手探りの未来
http://style.nikkei.com/article/DGXMZO03359670Y6A600C1TY5000


 結婚も出産も自分の意思だけではどうすることもできないし、どうすることもできないほうが、かえっていいこともある。夫や子供は「自分を輝かせる」アクセサリーではないし、結婚は幸福を約束するものでもない。

人生に求めるものが多すぎると、それが自分や他人や社会への不満になり、結果的にはよろこびや安心から遠ざかることになる。しかし求める気持ちは容易に抑えられるものではないので、あたら多くの老若男女は、悩みの泥沼に沈むことになる。

「でも、どこどこの誰誰さんは、全てを求め、何もかも手に入れて、輝いているじゃないか」と思いがちだが、一部の突然変異をのぞき、その「輝いて見える」ケースのほとんどすべてがホラッチョの幸福詐称だと観てほぼ間違いがない。

「人間は人間らしからぬ多くの望みを抱くが、結果ただの人間にとどまる」という言葉がある。ヘンな話をするようだが、「人間が人間らしからぬ多くの望みを抱く」のは、結局のところ「教養」がないからではないか。

ここでいう教養とは、知識や情報のことではない。自分が生まれる以前の過去から引き継いできた、意識的、無意識的な、風土的・文化的な、その人の精神を根底で支えるバックグラウンドのことだ。

そういう「教養」を欠いているのは、今生きている彼・彼女の責任ではない。現代の文明社会(おそらく世界共通)の住人がひとしく抱えている、宿命的な欠乏だといえる。その欠乏を抱えているかぎり、どんなに物質的・外貌的に満たされようとも、その人の心の安寧とはあまり関係がない。

文明は肉体の安全をもたらしたが精神を危機にさらした。現代の「若い女性」が直面している苦悩は、その現象のひとつと観ていいのではないかと思う。

現代においては、女性の生き方は多様化していると言われている。たしかに見かけ上のライフスタイルは様々になってはいるが、価値観はどんどん一元化しているように見える。

成人女性の価値観は、以下の三要素を成就することによって達成されると考えられているようだ。それは、「結婚している」「子供がいる」「職業をもっている」の三つであり、これらを揃えたあとは、それぞれをどのレベルで、どのクオリティで達成しているか観点が移る。

結婚していれば夫や子供の出来具合、職業をもっていれば収入や職種や「やりがい」の有無を詮索されるし、自分でも気になって仕方がない。

こういった「向上心」にはキリがないし、どこまでクリアすればゴールなのかもわからない。なんとなくそれぞれには「このぐらいのレベル感が自分にはふさわしい」というイメージはありこそすれ、それがクリアされることは稀であるし、達成されればさらに上を望む気持ちがもたげていく。

この様相は、煉獄のようでもあるが、当の女性自身を眺めてみると、確かにそれに苦しんでいるようにも見えるが、反面、それを愉しんでいるようにも見える。それは、こういった「苦しみを愉しむ」のが、人間の生き方そのものに、ある程度合致しているからかもしれない。