ジャン・フランソワ・ミレー「落穂拾い」 物語派の画家たち

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 絵の魅力というものは、人間の魅力とやや重なるところがあって、その意味は、デッサンが正確だったり配色がきれいだったりするいわゆる「上手い」絵がそのまま魅力的な絵になるとは限らないように、容貌やスタイルが良かったり、品行方正な人間がそのまま魅力的な人間とは限らない、ということである。

個人的な見解になるが、人間の魅力とは、過ぎてしまった「過去」や、これから訪れる「未来」を感じさせるところから生じると思う。いい大人なのに、まるでその生きてきた道程を感じさせなかったり、子供なのに洋々たる未来を感じさせず嫌に老成してるように見える場合には、その人間には「魅力がない」と判ずる、そういう癖が自分にはある。

過ぎ去った時間や、これからすぎていく時間の流れの中で、揺るぎのない存在を感じさせたり、時間という大河の流れに浮つ沈みつ、たゆたっている雰囲気が出ている人間には魅力があり、無い人間には魅力がない。はやりの言葉を使えば存在の前後に「物語」を感じさせることが、人間の魅力の要諦である。絵画も同様で、一枚の「静止画」が、過去や未来に連綿と続く「動画」を感じさせるところから、作品の魅力が生じることは多い。

世界史上に残る作品を幾枚も描いたミレーは、もちろん拙い絵描きではないが、技量的にはけっして上手な部類ではないように思う。ややデッサンのバランスが崩れるときがあるし、筆に込めた感情が過多なせいなのか、描写に抑制を欠くときもある。自分の中では、本当に「上手い」絵描きといえばベラスケスやコローやマネなどだが、ミレーはその列に並ぶ画家ではない。

しかし、視る人に、抗しがたい魅力を湛えた「物語」を感じさせる画家として、ミレーは絵画史の中で格別の光を放っているし、絵画の真の価値というものは、実は見る人に「物語」を感じさせる力にこそあるようにも思う。中世さかんに描かれt宗教画には新約聖書というモチーフがあり、そこにはおのずから物語が内包されていたが、ミレーは聖書というテーマをもたない独自の宗教画を、物語性豊かに描き出した、といえるかもしれない。

ミレーはマルクスとほぼ同世代人で、この時代は、産業革命に端を発した資本家の勃興という時代の光の陰で、社会を下支えしている、民衆の素朴な勤労への評価と賛美が深く、静かに広がりつつある時代でもあった。ミレーがマルクスの思想をどう思っていたのかは寡聞にして知らないが、そういった時代の空気を、彼はたっぷりと吸いこんでいて、それを作品の中で表現していたと言えるのではなかろうか。

なお、作風やモチーフはまるで異なるが、ヨーロッパの貴族の生態を描写したフェルメールや、近代アメリカ社会の倦怠を描いたエドワード・ホッパーなども、画面から濃厚な「物語」が立ちのぼってくる画家である。ミレーから甚大な影響を受けたゴッホもその系譜に連なるだろう。そういう意味では、彼らは「物語派」の仲間なのだろうと思う。