底で鳴る音

 司馬遼太郎は、芸術を「高度な快感の体系」と定義したが、「高度」や「体系」にはさしたる意味はなく、要は、「芸術とは快感である」と述べたに過ぎない。ただ、「述べたに過ぎない」と一蹴するにはこの言葉はやや惜しい。これは、「芸術」という巨大な船が、長年人類史を航行あいだに纏わりついた牡蠣殻をすべて取り除いてみれば、そこには生々しい「快感」しか現れない、という本質論である。

「快感といってもいろいろ種類があって・・」と、ひとくさり始めれば迷宮に入り、そういうことが好きな人には、これはたまらない展開だが、この「たまらない」というのも一種の快感である。快感とは要するに生理的、肉体的なものである。上述したような知的な快楽も、その意味するところは「知的な素材によってもよおされる生理的な快楽」ということであって、どこまでも快感が身体的なものであることから離れることはできない。

こんなことを書き出したのは、さきほど、部屋で掃除機をかけながら、ワーグナーのある歌劇の序曲をイヤホンで聴いている途中に、足下から沸き立って全身に駆けめぐるような非常な肉体的な快感を覚えて、この快楽の正体はいったいなんなんだろう、と考えたからである。この曲は以前から好んで聞いていたもので、なんど聴いたか想像もつかないほどだが、今回のような体験は初めてであった。

小林秀雄のエッセイに、若き日に盛り場をうろついているときに、モーツアルトのあるコンチェルトが頭の中で鳴り出し「脳味噌が手術を受けたように驚いた」り、スキー場の場内音楽でショパンピアノ曲がかかってその旋律にうち震えた、というような体験談があるが、音楽がもたらす快感(感動といい換えてもいい)は、その突発性と深甚な生理的作用において、交通事故や一目惚れのような「アクシデント」に近いように思う。

ここで、「音楽のもたらす快感の正体」を分析するまねをしたところで得るものは少なかろう。これは音楽に限った話ではなく、芸術や芸術作品は、生々しくうごめくある種の「生き物」であって、その構造の精緻を解明しようと、器具をつかって腑分けを始めれば、実体に死ぬしかない。解剖されたフナが命を落とすのと同じだ。バラバラにされることによって、確かに判ることは多少は有るが、死滅の代償があまりにも大きすぎる。だから分析ではなく観察や観照しかその本質を識る手だてはないのであるが、さしあたり、このぐらのことは言えるのではないだろうか。

人間の心の奥底にあるものは、言葉で画像でも映像でもなく、おそらくそれ「音」であって、音楽は人間の、人類の、もっとも基底的な部分と共振する強い力を持っているのだ、と。