人間がひとり存在する意味

 日本の借金がここまで膨らんだのは、出る金額に対して入る金額がすくなかったからで、簡単にいえば、国家の経済規模に見合った適正な税金をとらなかったからです。なぜ取らなかったのかといえば、政治家が増税して選挙に落ちるののが怖いからです。官僚は選挙におちませんから、財務省は税金を上げようとしてきたのですが、それをマスコミは「財務省の陰謀」みたいに報道して、国民もそれに同調して官僚たたきをしてきたという側面もあります。

ただ現在のように中流家庭層が薄くなり、「低所得者層」が分厚くなると消費税の増税はそのまま消費の冷え込みと経済の沈滞化に直結しますから、税金は法人税率のアップと所得税累進課税率を高くすることからまかなったほうがいいと個人的には思いますが、経団連や富裕層にいい顔をしたい現政権はそれをやろうとしません。そもそも消費税を上げる与野党合意をしたのは民主党政権のときですから、現政権にしても税金を上げるなら民主党がいいだしっぺである消費税は手を付けやすいのです。

また、「出る」方に目を移すと、確かにこれから少子高齢化社会、人生100年社会(ほんとかよと思いますが、それはさておき)を迎え、社会福祉費は増大していきますが、これを一種の公共事業の投資先と観れば、それによってカネが社会を回り、経済を活性化させる大きな要因にもなります。

今はやりの「生産性」という観点から見れば、老人や障碍者はそれが「低い」とみることもできますが、「消費の担い手」としてみれば、金持ちのように入ったお金を貯めこまず(人間は金持ちになったからといって一日十食食べるようになったり、布団を十枚重ねするものではありませんから、その多くはどういう形にせよ「備蓄」に回り、市中に出回らないまま死蔵されるのが宿命です)、すぐに消費するこれらの人たちは、消費の担い手として、きわめて有用な社会の構成要員になるわけです。

こういう社会福祉関連に大きなお金を落とすことは、年金基金をごっそりバクチに注ぎ込んだり、無駄に駐留を続ける米軍に巨額な思いやりをかけたり、良い気分で海外旅行したついでに還ってこない円借款でばら撒いたりといった、「国内で回らない無駄金」につぎ込むよりも何十倍も、日本経済に対する貢献度は高いはずです。

注意すべきことは、かつての社会主義国のように、国民がろくに働かずにすべて福祉にタカっていたような偽装的な「地上の楽園」にしないように、汗水たらして働いている人、ビジネスや社会スキームの合理化に有用なアイデアを発想できる人に、きちんとインセンティブ(これは金銭的なものだけでなく、社会から寄せられる認知や敬意なども含まれます)を与える社会のコンセンサスが必要になります。

どんな人間にも「生産者」と「消費者」の顔があります。社会や、経済は、この人間の二面性のバランスによって回転していきます。よって、一方を称揚し、一方を貶めるような価値観は、不道徳なだけでなく、きわめて不合理でもあります。

また、基本的な考え方として、人間は一生「生産性が高い」ままではいられず、誰も無能として生まれ、無能として死んでいくことを、今、「できる男(女)」として社会で肩で風切ってい生きている人たちにちゃんとわからせることだと思いますが、こればっかりは個人の人生観や、その人も持つ教養に依存するので、難しいところではあります。 

ごく単純に考えても、人生を八十年として、始めの二十年はほぼ消費だけを行い、その次の四十年は社会の生産活動に関わったにしても、最後の二十年はほぼ消費だけになる、というのが現代人の勤労者のモデルであって、ようするに人生は半分以上は「非生産的」であることから逃れられないのです。そのうえ、病気やケガなどもするのですから、人間が人生において経済活動において「生産的」である(ようするに国家のGDPに貢献している)期間は、実際はもっと短く、半分以下だと思います。 

そんなに短い時間しか貢献していないのにもかかわらず、いかにも「自分は生産的だがお前はそれに引きかえどうだ」といったような物言いをする人は、人間の実体も、それが構成する社会の姿も、ほとんど何も見えていない人だと思います。 

また一人の人間が存在することの影響は、決してその人が生きている間だけではない、という面もあります。たとえば、画家のゴッホは、生きている間はほぼ絵は売れず、その間はまったく生産者ではありませんでしたが、死後、彼の絵の多くが、現在は数億円からの価値を持つに至り、それらが市場に流通したり、美術館や展覧会のコンテンツになることによって、現代の経済に少なからぬ貢献をしています。

つまり、ゴッホは(あくまで経済的存在として観ずれば、ですが)、存命中はほぼ「消費者」としてのみ在り続け、一転して、死後「生産活動」を始め、その貢献は永遠に続く、と言えるでしょう。そして、ゴッホほどの生前と死後の大きなギャップはないにせよ、全ての人間が大なり小なり、同じことだと思います。

人間は生きている間だけ社会に影響を及ぼしているのではなく、その人が確かにこの世に存在して、いろいろなものを抱えて生きて、この世を去り、そして遺した事績が、後世にどういう作用を与えるのか、ひとりの人間が生まれて、確かにこの世に存在する意味は、そういうところからも考えるべきだと思います。