江戸っ子とは何者か

日本大アメリカンフットボール部の選手が関西学院大の選手を悪質な反則で負傷させた問題を受け、日大の大塚吉兵衛学長が25日、東京都内で行った記者会見の冒頭で、報道陣に紛れ込んだ高齢女性が「ちょっと待った。そんなまどろっこしいことやってられないのよ!」などと不規則発言を行う一幕があった。

 日本大学アメリカンフットボールの選手が、関西学院大学との試合で背後からの危険タックルをした事件で、日大アメフト部の監督とコーチが行った釈明会見のあまりのお粗末さの失地回復するために学長が臨んだ記者会見の冒頭で、七十代の女性が会見席の学長氏の目の前に乱入し、大声で難詰を始める、というアクシデント起きた。

くだんの女性は、すぐに日大関係者とおぼしき男性数人にとり囲まれ、腕力で会場外に連れ出されたが、女性はその場で、あるいはのちの記者からのインタビューの場で、

「まどろっこしいことやってんじゃないよ」とか
「ああいういい子を潰したのはお前らだ」」

というようなことを言った。

さらにこの女性は、「あたしは江戸っ子だから(黙ってみてられないんだ)」みたいなことを言ったという。自分はこのニュースに接し、この女性は「江戸っ子」という言葉に、どういう思いを込めているのだろうか、ということを考えた。

こういう事件が起きると、世間は「狂女の錯乱」のように面白がるか簡単にさばくかしがちで、その本質に隠れているものをあまり真面目に考えようとはしないのが通り相場だが、そうするには惜しい何かがあるような気がしたので、文章をつづりながら考えてみることにした。

自分は、世に言う「江戸っ子」気質とは、「気の短さ」と「粋(いき)」に有ると思っているが、この二つは実は二律背反しているところがある。

「気の短さ」はひとまず「本質を掴んだらもたモタモタたせずに直ぐに指摘したり、実行に移したりすること」と言え、「粋」の意味は「本質に気づいているにも関わらず、あえて受け流したり、知らぬ振りをすること」であろう。ちなみに、後者のモラルは、映画「男はつらいよ」で寅さんがよく口にする「それを言っちゃあおしまいよ」という言葉が象徴している。

つまり「江戸っ子気質」とは、「本質」を目の前にして、指摘したり、指摘しなかったりするところにあるとすれば、当の江戸だっ子たちの心の中で、この「矛盾」はどう並立しているのだろうか。

この様相は、本質を突く態度は「厳しさ」であり、本質を突かない態度は「優しさ」である、とも言い換えられる。そして、後者の「優しさ」の場合、温情をかけられた方に生じる義務が「潔さ」である。

相手の寛容さに甘えることなく、時には自らを律し、自ら身を引くモラルが「潔さ」である。となれば、江戸っ子気質の中にはこの「潔さ」を含めてもいいかもしれない。

江戸っ子同士だけでなく、一般にトラブルや摩擦があったとき、この「お約束」はことのほか重要で、どちらかがこれに反したふるまいや言動をすると、お約束スキームは崩壊し、秩序が去り、カオスが訪れ、「喧嘩」や「出入り」という暴力闘争に発展し、血が流れたり、人が死んだりする。

少々脱線するが、実は今、日々国会で繰り広げられているのも、この「お約束」がすっかり崩壊したカオスの光景なのである。

責める側に「温情」がなく、責められる側に「潔さ」がないから、ヒューマニスティックな秩序は崩壊し、実のところ、殴り合いや刃傷沙汰以外事態は収拾しない事態になっているのだが、まさか天下の国会の場ではそれも適わず、とどのつまりは、不毛で醜悪な「答弁」だけで、時間がえんえんと過ぎていく、という仕儀になっている。

日大アメフト問題に戻ると、まず、実際に危険タックルをした選手が単身で記者会見し、「上からの教唆にせよ、実行したのは自分だから、最終的には自分が悪い」という相手への「優しさ」を見せた。

ここで、相手方(監督とコーチ)が「いやいや、こちらが全面的に悪かった。きみには責任はない」という「潔さ」で返せば、辛うじて秩序は保たれる。

しかし、あろうことか、監督コーチ陣営は「自分たちは教唆しておらず、悪いのは全面的に選手であり、自分たちには管理責任があるだけで、そこの部分に限定してお詫びする」というエゴの泥沼に足を踏み込んだ。

ここに至って、江戸っ子的人間関係秩序は崩壊し、代わりに、動物的な自己保存だけが目当てになるカオスが現出した。ひとたびこうなれば、あとは喧嘩(訴訟)で決着をつけるという、下の下策以外残されていない、ということになる。

学長の記者会見に乱入した女性の姿は、図らずも自分にこの事件が内包してい本質的課題を整理させてくれた。トラブルの収拾には、利害関係者のめいめいが「江戸っ子(厳しさ、優しさ、潔さ)」としてふるまうことが必要で、それがなくなれば血みどろの「喧嘩」をするしかなくなるのだと。

しかし、この「喧嘩」に救いがあるのは、それが衆人環視の中で行われているということである。「世間の目」がある限り、事態は結局「常識的な路線」が落としどころになることが多い。一時的には「無理が通って道理が引っ込む」ことあろうが、最後は「正義が勝つ」ことも多いのである。(「必ず」正義が勝つとは言い切れないところが残念だが)

注意を要するのは、この事件への世間の関心がどのくらい保持されるのか、ということであろう。次々と事件を消費しては忘れ去っていく大衆の常を思うとき、これについては甚だ心もとないと言わざるを得ない。

最後に思い出したのだが、江戸っ子気質には「子供を大切にする」というものもあるように思う。大人が子供(自分の子、他人の子の区別なく)を精神的にせよ、肉体的にせよ、苛めるのは人間としてもっとも卑怯なふるまいで、それを看過しないモラルが江戸的な下町社会にはある。

これは落語の人情噺などを見聞きするとよく感じることで、記者会見に乱入した女性の「あんないい子」という言葉からは、そういう文化的なニュアンスも自分には感じられたのである。