2018_05_27 皇居竹橋

 地下鉄東西線竹橋駅にある国立近代美術館に「生誕150年 横山大観展」を観に行く。ほとんどが初めて見る作品ばかりで、今回ようやく認識したのだが、この人の作品は老年になればなるほど、よくなっているようだ。

たいがい人間は、年をとればとるほど、もろもろ零落して、情け容赦なくポンコツ化していくものだが、芸術家にはまれに、こういった世間の通り相場とは逆張りの人生を歩む人がいる。

 老人になればなるほど作品が良くなるといっても、耳目に入りやすい「枯淡の境地が開かれた」というようなものでもない、堂々たるエネルギーを放射する大作や、美意識が尖りに尖った小品が、老年になればなるほど続々と出てくる観がある。

 この展覧会のキャッチフレーズは「画は人なり」のようだが、絵を描くことに限らず、人間がすることは、何から何まで、良くも悪くも全てひっくるめて、その人のパーソナリティの表現である。

発する言葉や描く絵も、ひとつ残らず他者へのメッセージでないものはない。逆説的に言えば、メッセージを出さないということも一つのメッセージなのである。横山大観の作品には余白が多い。ここに敢えて物を描かない、ということが一つの強いメッセージになっているのを感じる。

西洋の絵画は、隅から隅までびっしり形を敷き詰め色を塗ることが常道だが、日本の絵画は、何も描かないホワイトスペースを大胆に設けることがしばしばある。「余白の美」という言葉があるが、勿論余白そのものに美があるわけではなく、余白によって画面全体が美観を構成する、その妙を指した言葉である。

 会場内の掲げられた説明によると、大観は「何も描かない白いエリアが、空になったり、海になったりするところに日本の水墨画の妙がある」という意味のことを言ったらしい。

彼が画面上で無から有を感じさせる腕前は至高のものだ。胸中の美意識が、描き込むべきエリアと、描いてはならないエリアについての、明確な指令を、絵筆を持つ彼にきわめて的確に指令している。

馬鹿みたいなことを言うようだが、絵描きは絵を描くのが好きだ。だから、放っておけばどんな大画面でも隅々まで形や色で埋めてしまう。これは、お絵描きが大好きな子供が、広告チラシの裏面にびっしりと落書きをするさまと同じだ。

クロード・モネの池の睡蓮の連作を観ると、こういった画家の生理が露骨に顕れているのを感じる。彼は走るのが好きな人が長大なランニングロードを足跡を等間隔で埋めるように、広大な画布を睡蓮でうずめている。

横山大観もそういった画家の本能とは無縁ではなかっただろうが、彼が、すべての余白に色を塗りこめたい抗しがたい欲望を辛うじて抑えながらストイックに余白を作っていたのかといえば、おそらくそうではないだろう。

彼は、自分の作品が、余白という手つかずの場所を確保することで、驚くべき効果が現出することに、悦びをと自足を得ているのである。