2018_06_09 国立新美術館

国立新美術館に「ルーブル美術館展」を観に行く。

国立美術館は、所蔵作品を持たない、展示会専用の美術館なのだそうだ。黒川紀章設計の偉容の中の構造は、やはり専用のイベントの容れ物である東京ビッグサイトにやや似ている。

所蔵作品のない美術館というには常設展が無いわけで、それが通常の美術館に比べると寂しい感じがする。白状すれば、先週に訪れた国立近代美術館の「生誕150周年 横山大観展」は、大観の作品よりも、購入チケットで見られる常設展の作品群の方が、自分には興味深かった。

今回の「ルーブル美術館展」は「肖像芸術―人は人をどう表現してきたか」がテーマだった。

印象に残った作品を挙げると、まずはエジプトで出土した紀元2世紀のものと思われる棺桶の上に載せられていた古人の生前のポートレート、現代風に言えば「遺影」である。

どんな画材で描いたのかは知らないが、その描写感覚は極めて近代的だ。特にハイライト(光を顕す白)のつけ方が、ほぼ現代の肖像画の定石と同じである。この絵でハイライトを施していた部分は、黒目・鼻筋・鼻頭・眼と鼻の間・眼球の下・唇の上だったと思うが、黒目にハイライトをいれるのはまだしも、眼球の下と唇の上に入れているのには驚いた。

そもそも、対象の細密描写において、古代人より現代人の方が優っているとみなすこと自体的外れなのかもしれない。ロダンギリシャ・ローマ時代の彫刻の前では現代の彫刻家は平伏するしかない、と言う意味のことを言っているが、彫刻がそうであれば絵画だって同じことだろう。

中国文明のように、古代こそ至高で、現代になればなるほど文明は堕落していく、という歴史観も極端なのかもしれないが、人間は何千年も前からいまのような形質の人間でありつづけているのは、確かなように思われる。

展示作品の中でナポレオンが繰り返し登場する。見上げるような大理石の立像、初陣の颯爽とした姿を描いた油彩画、デスマスク、煙草入れの極小の細密画、と言った具合である。

小学生の時に、子供向けに書かれたナポレオンの伝記を呼んだことがある。子供時代に雪合戦で巧みな采配を見せ自軍を勝利に導いた、というくだりはいかにも偉人伝的だが、その後の出世譚は直線的で単調である。

約めていうと、軍の末端組織から有能さを発揮して出世街道をひた走り、軍を掌握して対外戦争に連戦連勝、国民の声望を集め、位人臣をきわめるが、中年にさしかかり往年神通力は衰えはじめ、今度は連戦連敗、晩年は落剥して絶海の孤島に島流しにあい、惨めに死んだ。これが彼の人生のあらましだが

ナポレオンの来歴は、著名な人物の成功譚を描き、後世の人々に出世の秘訣を学ばせ、モチベーションを喚起するという、本来の「偉人伝」の機能からやや乖離している。彼の人生は、「盛者必衰の理を顕」した仏教説話のような無常感に満ちている。

日本史の中にナポレオン的な人物を見いだそうとすれば、まずは豊臣秀吉であろう。秀吉も下賤の生まれから身を起こし、信長軍団の官僚組織の末端に連なり、各レイヤーにおいて任ぜられた仕事において成果を出し続け組織の階段を駆け上り、ついには日本の皇帝的な地位についた。

その後、朝鮮出兵という対外戦争でつまづき、晩年は失意のものとに死ぬ。彼がナポレオンと違うのは、晩年においても政治的権威を保持し、身分的に落剥したわけではないところぐらいだろう。

秀吉の晩年の句である「露と落ち露と消えにし我が身かな浪花のことは夢のまた夢」から感じられるのは、彼がうちに抱えた虚無と孤独の大きさである。彼は最晩年においても、多くの家臣にかしずかれ、諸大名を睥睨する立場にいたが、そのことは彼の心を少しも救いはしなかったのである。

この展覧会の中で、一つだけ自分のものにできると言われたら(あり得ないだけにそういうことを考えるのは愉しい)、自分はベラスケスの「スペイン王マリアナ・デ・アウストリアの肖像」を選ぶ。自分にとって、ベラスケスは世界絵画史上図抜けた存在で、彼の作品はたいがい好きだ。(写真は顔部分のアップ)

ベラスケスの絵を見ていると、彼が対象から何もかも見抜いていることが伝わってくる。それはおそらく、見抜こうとして見抜いているのではなく、彼が自分自身でも手のつけようがない天性の千里眼が、我知らず対象を自動的に丸裸にしてしまうのである。

彼が見抜いたことは、彼の熟練しきった技巧が余すところなく画布の上に表現される。そのプロセスには誰も介在できず、変な話だが、彼自身も一指もふれることができない。もちろんこれは、モデルが着ている衣装をはぎ取ってオールヌードの絵を描くといった筋のものではなく、見方によっては、それよりもよほどたちの悪いものだ。

こんな情け容赦のない恐ろしい画家の前に、おそらく当時の王侯貴族は、単にリアルに作品を仕上げる腕前だけを見込んで、無邪気にモデルとして立っていたのである。

もし自分がベラスケスのモデルになっていたら、とまたあり得ない想像をしてみる。おそら自分は相当精神のコンディションがよいときでなければ、その作品を正視することができないだろう。