笑いが生まれる場所について

茂木健一郎氏がSNSで以下の発言をし、各方面から反発を招いた。

「トランプやバノンは無茶苦茶だが、SNLを始めとするレイトショーでコメディアンたちが徹底抗戦し、視聴者数もうなぎのぼりの様子に胸が熱くなる。一方、日本のお笑い芸人たちは、上下関係や空気を読んだ笑いに終止し、権力者に批評の目を向けた笑いは皆無。後者が支配する地上波テレビはオワコン」

氏が言いたいことはきわめてシンプルなのでとてもよく判るし、こういうことが言いたくなる今の日本の政治状況認識も共感するが、これはシンプルな外形そのままの浅薄な洞察であって、自分も「各方面」と同じく、これを読んだとたん胸中に大きな違和感が群がり生じた。

その違和感を分析的にアウトプットすると、以下のような断片になる。

「笑い」は場の「空気」の上で成立するものなので、それを「読むな」というのはその本質を理解していない証拠である。そもそも、氏が持ち上げる海外のコメディも「常識あるアメリカ人の大多数はトランプに批判的である」という社会の空気を読んだ上でなされている。そして、当然ながら共同体の中でたちこめている「空気」は、日本と欧米では甚だしく異なっており、その差異について氏は無頓着なように見える。

人類普遍の文明的なグローバルな笑いなどごく狭い範囲でしか生起せず、現実世界で存在するのは、各共同体ごとの文化を背景にしたローカルな笑いしかない。そういう点で、昨今の日本の芸人が何かと口にする「日本のお笑いは世界的に見てもレベルが高い」的な発言も、視野狭窄的な自己満足に過ぎない。

日本の笑いは落語や浪花節から受け継ぐ「人間の情けなさ(=業)の肯定」と「ありきたりな正論(=野暮)の否定」だが、西欧のコメディには風刺(社会批評)の伝統があり、そもそも出自が違う。

日本の現政権は、アメリカのそれのように、万人に判る「悪党」の外貌を持っていない。日本の現政権の害悪は一定以上の知的レベルを持った人たちでしか未だ共有されておらず、万人が笑えるコメディが成立するまでの確固たる「空気」は、まだ醸成されていない。

日本の「芸人」たちにとって、あらゆる政治批判や社会批評は野暮、あるいはダサさの極みであって、多少のリスクを冒しても何としても世に出たい地下芸人のあがきか、時代に取り残されやむなく「知性派」への鞍がえを図ったケースか、功成り名を遂げた大御所の時事ネタとしての活用のいずれかしか政治批評の使い道がない。

日本においてお笑いに限らず芸能人はまだ「賤業」のイメージをまとっており、芸人は、それを逆手にとって爆発的な笑いのエネルギー(そして莫大な社会的・金銭的報酬)に変換している裏事情がある。つまり芸人にとって、ポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ)に阿った「ご立派な」な言動は、その極めて有用性が高い立ち位置を自ら放棄することに他ならず、よって、怜悧で腕の立つ、そして計算高い人ほどその危険から距離をおく戦略を採るのである。

欧米と異なり日本においては「笑いをつくる能力」と知性との深い関連性を、あえて曖昧にする文化がある。欧米では「ユーモア」は知性の証しだが、日本では「お笑い」はあくまでサブカルチャーであり、言うなれば反知性的な地位に留め置かれている。その理由は定かではないが、日本ではその関連性をおおやけにしてしまうと、笑いのもつ爆発的なポテンシャルが損なわれるからではないかと、自分は思っている。シンボリックな書き方をすれば、「アホの坂田は実はアホではない」ということがバレてしまえば、日本のお笑い芸は成立しないのである。