村上春樹「騎士団長殺し」

 村上春樹の長編小説「騎士団長殺し」を読む。

村上春樹の書き物は、小説、エッセイともによく読んでいるが、自分自身は「ファン」だと思っていない。なぜなら、この人の作品をあまり購入したことがないからである。

読んだ作品は、もっぱら図書館で借りたものだ。「騎士団長殺し」も昨年出版されてから予約し、半年以上待って、先月はじめから少しずつ読み進め、ようやく先日読み終えた。

音楽作品は、音が鳴っている時間だけが作品として存在しているが、小説の事情も基本的には同じだ。小説は読んでいる時間にだけ存在しているのであった、短編にせよ長編にせよ、読者に良質の「時間」を提供できるのがいい小説だと思う。

自分はこの小説を読んでいる時間を愉しむことができた。そういう意味では、自分は「騎士団長殺し」は、いい小説だと思う。

自分がこの小説を愉しんだ理由の一つは、主人公が肖像画家であり、その独白を通して作者の絵画観に接し、思考を深めることができたところにある。たとえば、以下のような一節がある。

「絵というものは不思議なもので、完成に近づくにつれてそれは、独自の意志と観点と発言力を獲得していく。そして、完成に至ったときは、描いている人間に作業が終了したことを教えてくれる。そばで見物している人には、どこまでが制作途上の絵なのか、どこからがすでに完成に至った絵なのか、まずは見分けがつくまい。未完成と完成とを隔てる一本のラインは、多くの場合は目に映らないものだから。しかし描いている本人にはわかる。これ以上手はもう加えなくていい、と作品が声をだして語りかけてくるからだ。ただその声に耳を澄ませているだけでいい。」

こういった「未完成と完成とを隔てる一本のライン」は、文章や音楽にもある。これ以上何かを付け加えても作品は「量」的には増えこそすれ「質」的には何も上昇しないという閾値のようなものがあり、それは作者本人が直感的に気づくものだ。

この「一本のライン」が、製作者の主観的な判断で引かれるのか、第三者の客観的な判断で決められるのかの違いが、芸術作品とそれ以外の造形物との境目でもある。

たとえば、ビルや家屋などの建造物や工業製品は、第三者から観て未完成な状態のものを、作者が「これで完成品だ」と決めつけるわけにはいかない。

これらは、完成のイメージがある程度、あらかじめ関係者間で共有されていて、それに適合する過不足のない外貌と内実を備えるまでは、その作物は「完成品」と呼ぶことはできない。

芸術作品との境目が曖昧なことがある職人的工作物でも、たとえ外貌がたいへんな美しさを備えていても、そこに求められている機能を十全に備えるまでは、それは「製品」あるいは「納品物」たりえない。

一般的にいって、芸術には多様な「自由」が許されているが、この「終わりの自由」がもっとも大きく、もっとも本質的な自由ではないだろうか。この自由を他人から制御された作品は芸術作品とは呼べないし、制御されている人を芸術家とも呼べない。

「作品の終わりが至当だったか」余人がそれを知るのは、作品が作者の決断によって「完成」してからよほど後のことで、その段になってようやく世間は「この作品は一見未完成のようだが、これで完成だったのだ」と得心するようになる。

「一本のライン」は作者の生理的直感のようなもので、現象的にいうと「この作品にこれ以上関わる気がなくなる」瞬間である。逆に、発注主から「これはもう立派な完成品だから引き渡してほしい」といわれても、作者がそう思えないときは、いつまでも手元において延々と手を加えることになる。

この作品には「子供(あるいは家族)」という軸もある。免色(メンシキ)という風変わりな名前の登場人物にこういうセリフがある。

「この世界でなにを達成したところで、どれだけ事業に成功し資産を築いたところで、わたしは結局のところワンセットの遺伝子を誰かから引き継いで、それを次の誰かに引き渡すだけの便宜的な、過渡的な存在にすぎないのだと。その実用的な機能を別にすれば、残りの私はただの土塊(つちくれ)のようなものにすぎないのだと。」

作中にこういう言葉を入れることができるのは、作者の村上春樹自身に実子がいないからこそだろう。作者にもし実子があれば、自分の遺伝子を引き継ぐ子供がいない人生を否定するようなこういう言葉は、たとえ作中人物のセリフであっても入れるわけにはいかない。

こういったテーゼは「自己否定」のスタンスを採ってこそ、世間的に明示が許される筋合いのものだからだ。

「負け犬の遠吠え」で知られるエッセイストの酒井順子に「子のない人生」というものがある。この本は、「自分は自分、人は人」の個人主義の世の中においても、「子供を産み、育てる」ことへの世間の同調圧力がいかに強いかを、受け容れたり、嘆いたり、驚いたりしている本だが、こういう本を世に問うことができるのも、作者本人に子供がいないからだ。

親にとって「子供」という存在は格別のものだが、親も子供もともに人間である以上、親子関係も様々な人間関係の一つパターンだと相対化することもできる。

人間関係こそは、人生における喜びの核でもあり、苦しみの根でもある。人間は、他者によって、幸福の絶頂にも不幸のどん底にも、同じように導かれる。この事情は親子関係でも、全く変わらない。

子供がいない人にとっては、子供は美化するにせよ排斥するにせよ、いずれにしても観念であり抽象である。つまり村上春樹風に言えば、「イデア」であり「メタファ」でもありうるのだが、子供がいる人にとっては子供は名前を持ち息を吐く肉体を備えた具体的な実在である。

実子を持つ人には、この「子供」の抽象性も具体性も、絶対性も相対性も、精神性も肉体性も、両方とも識る契機が与えられる。ただ、多くのケースでは、実子が生まれたとたんに、つまり具体的実在を得たとたんに、かつて抱いていた抽象的観念の方はすっかり忘れてしまうのが相場なのだが。

人間の精神性に「幅」と「深さ」があるとすれば、人生において子供を持つことは、前者である「幅」を広げることには資するだろうが、「幅」も「深さ」もしょせんは単なる「量」にすぎないと観ることもできる。

いずれにせよ、人生において子供を持つ意味を巡る議論は、それを重く観るにせよ、軽く観るにせよ、語る人の実人生を背景にしたポジション・トークにならざるを得ない。

騎士団長殺し」には、様々な複線が仕掛けられているが、ほとんどの糸は切れて漂っている。すべての複線が後半に向けて収斂し、何もかも辻褄があっていき、そして大団円を迎える・・ようなカタルシスを求めるニーズには、村上春樹の作品は応えていない。

現実生活というものは、様々な出来事がそれぞれの目方存在感をもって、関連もするが関連もしない、といった風情で存在するものなので、村上春樹の作品にはこの意味でのリアリティがある。

彼の長編作品には、家事を器用にこなす専門職の男性、怜悧で社会的地評価や地位が高い友人、巫女的な神秘性と芸術への直感力を湛えた少女、知的で性的に放縦な成人女性、そして洞穴や部屋などの「狭く暗いスペース」が舞台装置として登場する。

村上春樹の作品の登場人物が定型化していることをネガティブに指摘する向きもあろうが、このラインナップの毎度おなじみ感が、読み手をなんとも安心させる効用があることは否定できない。

これは九連覇中の巨人軍や、全盛期の西武ライオンズのメンバーが固定していたようなもの、あるいは一流の投手が毎回同じフォームでボールを投げているようなもので、この安定感こそが、村上作品の「強み」の構成要因なのである。

この小説は、上巻が「イデア」、下巻が「メタファ」がテーマになっている。「イデア」は抽象的な思念や情念あるいは発想(アイデア)偶像(アイドル)のことで、比較的意味が取りやすいが、「メタファ」は難解だ。というのは、この言葉は(おそらく日本国内では)語り手によって、ずいぶん恣意的な使われ方をしているからだ。

「メタ」という術語を持ち出せば何となく利口そうに見える、という幼稚な思いこみが今、世にはびこっているようにも見える。

metaという接頭語には、「背後に隠れているもの」とか「変化すること」という概念がある。「背後」と「変化」では随分違う概念のようだが、現実を現実のまま観察したり理解したりするのが難しいときに、その現実の背後に隠れているものを、何か別のものに置き変えて説明してみると腑に落ちる(ことがある)、という意味において、「背後」と「変化」の概念は、ぴったり重なる瞬間がある。

ある現実を説明する時に、背後で共通している別のものに置き変える手法をメタファ(暗喩)という。ごく簡単にいえば「喩え(たとえ)話」のことだが、喩え話には「直喩」と「暗喩」の二種類がある。この二つの境目ははっきりしておらず、グレゾーンの地帯が広い。

拙い例を挙げると、ある人物を説明するのに、「彼の頭はおにぎりのような形をしている」というのが直喩で、「彼の性格は握りたてのおにぎりのように暖かい」というのが暗喩である。つまり説明のために、客観的に相似しているものを持ち出すのが直喩で、主観的に想起されるものを持ち出すのが暗喩である。

「知性」とはとどのつまりは、森羅万象の物事を観察し、「普遍性(同じところ)」と「個別性(違うところ)」を認識する能力のことだが、この普遍性を掴む力を仮に「メタ認知能力」と呼ぶとすれば、この能力が豊かであればあるほど、鋭いメタファを量産できるということになる。

メタ認知はどこで行われるのか。多くの人心を超越した鳥瞰的な高度からなのか、一人の人間の心理を深堀して到達する精神の地下水脈の深度なのか。前者は「空」からのアプローチであり、後者は「地」からのアプローチであると言えるが、村上春樹が常に採用するのは「地」からのアプローチである。

村上春樹は、生前の河合隼雄と親交があったが、この二人を結びつけたのがユング派の「集団的無意識」の存在を前提とする心理学であった。この心理学が一定の信憑性があるのはほぼ明確で、逆に、そういった共通の心理地帯が集団になければ、文化の継承も、言語の共有もなされず、人類の文明はちっとも深化も進化もしなかっただろう。

村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」と今回の「騎士団長殺し」で描いた井戸状のタテ穴は、この集団的無意識地帯への通路として登場する。

「人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思っているわけです。一階は人がみんなで集まってご飯を食べたり、テレビを見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、音楽を聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。日常的に使うことはないけれど、ときどき入って、なにかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。・・その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは、自分の過去と結びついていたりする。それは自分の魂の中に入っていくことだから。」(村上春樹

村上春樹が描く「タテ穴」は、上記の文章中の「地下室の下にあるまた別の地下室」に当たる。それは、なかなか入れないし、入ってみれば普通の家の中では見られないものを見ることができるが、「入らないで終わってしまう人」もいる特殊な穴だ。

その穴は、「自分の過去」とさらにいえば、自分以外の、自分が生れる以前の他人が体験したことども、つまり「歴史」の中にも通じている。彼が小説の中でしばしば、歴史に関する記述をするのは、それが「穴」を構成している重要な要素だからだ。

騎士団長殺し」の中で、イデアとして登場するのは身長六十センチのコビト「騎士団長」だが、「騎士団長」は便宜上「騎士団長」の格好に応身して主人公の目の前に現れているだけであって、主人公が望めばどんな姿にも変わることができる。

騎士団長自身が、「他者による認識のないところにはイデアは存在し得ない。」と語っている通りだ。

厳密に言えば、コビトの「騎士団長」は目に見える姿に化身したあとの具体的存在であって、イデアそのものではない。イデアは人間の頭の中、あるいは心の内、あるいは複数の人間が共有している「あるひとつの思い」であって、それ自体は形質を持っていない。

当たり前の話だが、もし形質を持ってしまえば最期、それはもはや観念ではない。その観念の純粋性を保つために、イスラム教やユダヤ教では、信仰の対象を絵や彫刻やマークのように具体的に造形化することを禁じている。「偶像崇拝の禁止」の本質がこれである。

「騎士団長」がイデアの化身だとしたら、騎士団長とは主人公の(あるいは主人公が属する人間社会で共有している)どういう観念のことなのだろうか。その解答を明示する箇所は、自分が読んだ範囲では小説の中には存在しない。

ただ、それとの関連性や無関係性はまるで提示されないまま、作品の中では旧日本軍やナチスの残虐行為や、東日本大震災といった、人間がこれまで巻き起こしてきた、あるいは遭遇してきた惨禍の数々が提示される。

ここで「様々な人類の惨禍や人間苦を救う平和と安寧のシンボルがイデアである」ということが示唆されるなら、話はごくわかりやすいのだが、こういったわかりやすさがあったら、村上春樹の作品がここまで読まれることはなかっただろう。

村上春樹の作品の引力は、ひとつは文章の素朴さと反比例的な関係にある内容の複雑さ(悪く言うと、「思わせぶり」の上手さ)にあり、彼は読者に容易に「作者がいいたいこと」やテーマを明示しない。というか、彼にはごくふつうの意味での「いいたいこと」やメッセージを作品に込めることはしないし、それ自体を極力避けている意思も感じられる。

おそらく彼には人間の「いいたいこと」には常に嘘が含まれているから、「いいたいこと」は明示しない方が正当なのだ、と考えているのだろう。

村上春樹が作品の中に戦争や自然災害の稿を入れ込むのは、反戦思想や人生の諸行無常を訴えているのではないだろう。では、何のために彼はそういうことをするのだろうか。さらにいえば、彼が作品の中に、性行為や、料理や洗濯、歯磨きといった日常些末のシーンを長々と入れる意味はいったい何なのだろうか。

人間は、捕虜の首切りもするし、外国に押し込んで何万人もの人を殺すことあるが、性行為もすれば、歯磨きもするし、アイロンをかければ、パスタを茹でることもする。目に見える人生の惨禍に身震いもするが、目に見えない美しさに自足することもある。

自分で経験したことも、自分では経験していないこともすべて、「記憶」として受け継いで貯蔵する。その記憶の貯蔵庫にこそ心が宿る。彼は小説のある登場人物にこんな言葉を吐かせている。「心は記憶の中にあって、イメージを滋養として生きる」

大虐殺も、首切りも、アイロンかけも、歯磨きも、パスタ茹でも、他者の経験も自分の体験も、すべてひとりの人間の記憶のデータベースに貯蔵される。心はその記憶の大海の中に生起し、ぽっかり浮かんだクラゲのような生き物だ。

その生き物は、周りをとりまく海の滋養で育ち、それをネルギーにして活動する。これが人生のリアルであることが伝わっているから、どんな「ファンタジー」を描こうとも、彼の作品にはリアリティが保持されている。

「極端なことを言ってしまえば、小説にとって意味性というのは、そんなに重要なことじゃないんですよ。大事なのは、意味と意味がどのように呼応しあうかということなんです。音楽でいう「倍音」みたいなもので、その倍音は人間の耳には聞き取れないんだけど、何倍音までそこに込められているかということは、音楽の深さにとってはものすごく大事なことなんです」(村上春樹

この彼自身の言葉の中に、彼の小説観が表現されている。上記の文章中の「意味」とは作品が訴えたい「主張」や、表現したい「テーマ」だと置き換えてもいいだろう。多くの作家にとって、重要なはずの「テーマ」が、村上春樹にとっては「そんな重要なことじゃない」ものであり、より重要なことは、意味や言葉が「響き合う」ことであって、それは人間が「聴きとれ」なくてもいいのだ、という。

首切りも、ナチスも、性行為も、パスタも、東日本大震災も、これらの言葉はいうなればすべて「音符」であり、それらが寄ってたかって「響き合」っていることが重要であり、この「響き」に耳を済ませることができず音と音を切り離したり手前勝手に合成して、何かを知的に了解しよう、あるいは都合の良い結論をでっちあげようという読書姿勢からは、何も得ることができないだろう。

多くの村上作品において「喪失と回復」がプロットの主軸になっていることはしばしば指摘されるところで、「騎士団長殺し」でもその構図は引き継がれている。主人公にとって最初の「喪失」は、十代で経験した妹「コミ」の死と、妻との離別である。

この二つの「喪失」は、妻との復縁と、その連れ子である「室(むろ」という名前の女の子の父親になることで「回復」する。この女の子は、DNA的には妻が主人公と離れている間に交際があった恋人との間にできた子供ではある(というように現実的には描かれている)が、主人公は妻と離れて暮らしている間に、妻を相手にした濃密な性夢を見ていて、それを根拠に、「”むろ”は、自分の実子である」と確信しているところがある。

主人公が講師として勤めていた絵画教室に通っていた、「巫女的な神秘性と芸術への直感力を湛えた少女」は「目に見えるものが好きなの。目に見えないものと同じくくらい」と語る。精神は現実に影響を及ぼし、現実は精神に(良くも悪くも)影響を及ぼす。思念は事実を産み、事実は思念を作ったり壊したりする。色彩は粉々になった光のかけらであり、他人は自分の人格が反射したものだ。

芸術作品は「目に見えるもの、あるいは五感で知覚できるもの」を表出するが、その裏には巨大な「目に見えないもの、五感で知覚できないもの」が息を潜めて控えている。

目に見えるものを緻密に描写することによって目に見えないものに至ることもできるだろうし、目に見えないものを素材やエネルギーにして目に見えるものを形作ることもできるだろう。この両者は常に対照的であるとともに、相互補完的でもある。

なお、この小説において、登場人物や出来事は凡そ一対の構造(陰と陽、あるいは現実と暗喩の関係で)で顕れるが、その中で「白いスバル・フォレスターの男」(主人公が妻から別れを告げられた後に出た東北地方のドライブ旅行と、後半の「顔なが」の誘導による地下世界の旅は対になっているが、この男は、前者の東北地方の旅で初めて登場する)が誰と対になるのかが、自分にはわからない。

消去法で考えると、対になるのは「騎士団長」しか残らず、おそらくそうなのだろうが、「白いスバル・フォレスターの男」と「騎士団長」のどこが通底しているのか、あるいは対照しているのか、これについては、いずれ自分なりの答え(必ずしも「正解」ではない)を見つけたいと思っている。