3月11日のこと

 本棚がいっぱいになったので、過去数年にわたって購読してきた月刊誌(文芸春秋)を捨てることにした。その前に、いい記事があれば拾い読みをし、保管しておきたいものがあれば、切り抜いておくことにした。

一冊ずつ目を通していく中で、自分がこれまでその雑誌を買うだけ買ってろくに読んでおらず、読んだ形跡があってもまるで憶えていないことを思い知った。今回、「捨てる」という目的がなければ読むこともなかった記事を読みながら、「別れる」ことによって初めて向き合う事柄がある、というようなことを思った。

冷え切った夫婦がお互いに離婚をすることを決意し、それに向けた話し合いをする過程で、その夫婦おいて初めて真摯に「向き合う」ことになり、次第に、お互いの人となりを認識するようになり、離婚するのを止めた、なんてことも起こりうるし、実際起こっているのではないだろうか。

原則「捨てる」ことを決心し、その前に、本当に捨ててもいいものか検証をする過程で、その対象物にまだまだ使える要素がビッシリと詰まっていることに気づき、破棄から保管に方針変更する、なんてこともおそらくごくありふれた話だろう。

「捨てる」テクニックを説く本は、たいてい「ある一定期間、使いもしないし、見もしなかったものは、中身を確認せずに自動的に破棄する」ことを推奨する。その理由は「なまじ中身を見てしまうと、捨てるに捨てられなくなるから」だが、自分はこの理屈には承服しがたいものを感じる。「捨てるに捨てられなくなる」ことのどこに問題があるのだろうか。

保管するに足るべきものが見つかれば保管するのが当たり前で、それを振り切って捨てることに意義はない。

「捨てる」ことは手段であり、目的ではない。「捨てる」手段が目指すものは、あらゆる手段の御多分に漏れずその人の「幸福」であって、つまり捨てることがそれを増幅する方向つながるのならば、おおいに捨てまくればいいし、逆に、捨てないことがつながるのならば、捨てることは慎むべきだ。これは簡単な理屈だが、「捨てる」ことが目的と化すると、こういう当たり前のことが見えなくなる。

これとよく似た現象に「変える」というものがある。「変える」ことは現状をより良くするための手段であって、それ自体は目的たりえない。現状を変えることだけが目的化し、むやみやたらに対象をいじくりまわし、却って事態を悪化させることも、大いにあり得るのではないだろうか。

「手段が目的化していないだろうか」これは人間や社会が未来に向けて行動するにあたって、常に自戒・自省すべきことに思える。そして、世の揉め事の根っこには、たいてい、この履き違えがあるようにも思う。

そんなことを考えながら、月刊誌の山を読み返していると、3年前のある号に、村上春樹の短編小説が掲載されているのを見つけた。タイトルは「独立器官」で、この作品は今「女のいない男たち」という単行本に収録されている(ことは後で知った)。月刊誌や週刊誌に掲載されている小説を最後まで読みとおす根気は自分にはとてもないが、さすがと言おうか、肌が合ったのか、意を決してトライしてみたら、面白く読めた。以下はその感想文である。

一言でいえば、「これまで調子よく火遊び(不倫)をしてきた整形外科医の男が、人生初めて業火(純愛)に焼かれ焼死する」話だ。速水御舟日本画「火炎」を彷彿させるテーマである。火は生き物に明るさと暖かさをもたらすが、そのみなもとには一瞬にして対象を焼き尽くす熱量があり、生き物は常にそれとの距離感を意識しなくてはならない。火は一定の距離感があれば有益だが、過度に近接することには身の危険を伴う。

この「整形外科医」は、「恋愛」という熱源の周りをパタパタと蛾のように回って愉しんでいるぶんはよかったが、ある人妻に身も世もなく深入りし、そして裏切られることによって生きる気力をたちまちのうちに枯渇させ、最後は「餓死」という形で自殺する。彼の人生を評して、「谷村」という名前の作家として登場する作者は、こう述べる。

「僕は渡会医師(筆者注:整形外科医のこと)をとても気の毒に思う。彼の死を心から悼む。食を断ち、飢餓に苛まれて死んでいくのはずいぶん覚悟のいったことだろう。肉体的にも精神的にも、その苦しみは察するに余りある。しかし同時に、自らの存在をゼロに近づけてしまいたいと望むほど深く一人の女性を――それがどんな女性であったかはさておき――彼が愛せたということを僕はある意味、羨ましく思わなくもない」

軽がると相手をとっかえひっかえ不倫しつづけるのと、一人の相手に思いを定めてとことん執心するのと、どちらがまっとうな恋愛の在り方なのかとつづめて問われれば、後者が多数派だろうと思うが、しかしその道を進んで、業火で焼死するような結末を望むような人もおるまい。

「身を焦がすような激しい恋」は文学的修辞としては魅惑的ではあるが、本当に身を焦がしては元も子もないだろうし、さらにいえば、人間の生活において「火」的なもの(例えば恋愛)は必要不可欠ではあるが、それ自体はlifeつまり命や人生や生活の本質ではない。

ではlifeの本質とは何かと問われれば、うまくは言えないが、自分ならばcommunicationだと答える。コミュニケーションとは意思の伝達や、交際や交流のことだが、その要諦は、他者たちと共通のベースを持ちながらも、一体化はしない、これまで自分が述べてきた文脈でいうと「火の温かみは享受するが、近づきすぎての焼死は避ける」ところにあると思う。

ようするに物事には、すべてにわたって「間合い」というものが必要なのだ。こういうふうに書くといかにも冷ややかなようだが、火と抱き合って生きて還れると思うほど、自分は楽天家ではない。

ここにおいて、文学的ロマンティシズムと、実人生のリアリズムは乖離することにもなるのだが、自分としては、ここまで突きつめて思考して、やおら人間を描き出すのが「文学的リアリズム」だと信じたい気持ちがある。