平和のための戦争

 例えばAさんが誰かからひどい恨みを買ったとして、その誰かは自分の命がどうなろうとAさんを殺したいと強く念じ、行動にうつしたとしたら、地下室にこもって一歩も外出しない覚悟でも決めないかぎり、Aさんが生き延びる可能性はほとんどない。

 Aさんはつけ狙う「誰か」とは、絶対に戦えない。「絶対に戦えないのだ」というリアリズムがあるからこそ、「むやみに人に恨まれるようなことをしてはならない」という戒めが、おそらくどんな文明にも存在するのだ。

 「自分の命を捨ててでも相手を殺したい」と念じ、実際に行動を起こす個人や集団には、よほど根深い動機やいきさつがあるのが当然だ。これを当然だと認識し、それを識るところからすべての「対策」が始まってしかるべきだろう。

 もっともテロリズムのわけを識ったところで、「戦えない」相手に対して採るべき対策は「戦わない」の一つしかない。「戦わない」の中身を、もっと具体的に言えば、「戦っている連中の仲間には入らない」ということだ。

 「犠牲」とは、語源的には共同体の利益と差し替えに個人や個体が命を捧げることだが、この言葉がたんなる「事件や事故による死者」の意味をも帯びるようになったのは、大切な人の死が、単なる不運に遭遇した挙句のものでは空虚すぎるという、生き残った人の哀切のつらなった結果である。

 本来の語源に照らせば、フランスでのテロにおける死者は「被害者」であり、共同体に何らかの利益をもたらす「犠牲者」ではない。しかしこれから日本においてテロが起き、死者が出たときは、自分はその人々を(自分がその中に入るかもしれないが)「犠牲者」と呼びたい。

 なぜなら、その痛ましい死は、安倍晋三の一連の「安全保障」政策がまったく見当違いであることを実地に証明してくれたという利益を、日本という共同体にもたらすことになるからだ。

ときとして政治は、「国防」を旨として「侵略」を行い、「安全保障」を掲げながら「危険招来」という結果を招く。あらゆる軍隊は「国防軍」あるいは「自衛軍」であり、あらゆる軍事戦略は「安全保障」の名のもとに企図され、そして実行される。

そして、あらゆる戦争は、「平和を実現する」という目的のもとに行われる。