試論:同性愛について

性同一性障害」と「同性愛」を比べると、後者の仕組みの方が複雑だ。それは前者が煎じつめれば「生まれながらの肉体と精神のアンマッチ」で言い切れるのに比べ、後者には、より深い個人的・社会的事情、おるいは文化的・歴史的背景が、からみあっているからだ。

古来、日本の武家社会では「衆道」あるいは「男色」という呼称の男性の同性愛が公認されていた。例えば織田信長は、若い時分はのちの前田利家と、晩年は森欄丸とそういった関係にあったと言われているが、現在にも織田家の血統が残っていることから推定すれば、彼は異性愛者でもあったと見ることができる。

つまり、男性同性愛は特殊な個人的資質に起因するのではなく、社会的背景に出自を持つ行為・行動だと、まずは解することができる。

性質や容貌を好もしいと思った者に対しては、異性同性問わず、精神的のみならず、肉体的接触までも欲望する生理が、人間には普遍的に備わっている、という仮説が一定の妥当性を持つとすれば、同性愛は、「性同一性障害」とは違って、そこに立ち入るか否かは、もって生まれた個人的資質よりも、後天的な社会的・環境的要因が大きいといえるかもしれない。

さらに手前勝手なあて推量を許してもらえれば、顕在化するか否かは別にして、同性愛は、女性同士の方が(男性同士より)発生しやすいのではないか。それは性別を問わず人間は誰でも、「母親=大人の女性」への愛着や信頼からその人生を始めるからである。

なお、男性同性愛に比べて女性同性愛についての過去の史料や文献が乏しいのは、同性愛者の主役が男性だったからではなく、女性の同性愛が社会的ななんらかの理由で「隠されていた」からであろう。

女性の同性愛が社会的に隠されてきた理由としては、ひとつの仮説として日本古来の「男性は清潔だが女性は不潔だ」という土着信仰があるだろう。「不潔なもの」同士の性的接触が社会的に忌避されていた可能性がある。

現代人の大部分の人は想像もできないことかもしれないが(生物的な実態はまるで逆だから)、「男性は清潔、女性は不潔」思想は、日本の歴史においてかなり堅牢なイデオロギーであり続け、現代においても神道系の神事はたいてい男性が行うことになっていることや、天皇家の「男系男子」維持思想にもまっすぐにつながっている。

男性はその乳幼児の愛着と信頼の対象であった母親への思慕を青年時の恋愛に昇華させるというが、女性にも同じ心理・生理過程があったとしても怪しむにあたるまい。

つまり女性同性者はその愛情の対象者に、かつての自分の母親の影を観ている可能性がある、と自分は考えている。

これをもっとつづめて言えば、「(性別を問わず)人間は(大人の)女性を求めている」ということになる。では、男性の同性愛はどう説明がつくのだろうか。こちらには、文化的背景と、個人的事情が複雑に絡んでいる。

(ちなみにここで自分が言っている「大人の女性」とはあくまで肉体的な意味であって、精神的なそれではない。もっと具体的に言えば、生物的に生殖と出産が可能になった身体を持つ女性という意味である。)

文化的背景とは、かつての武家社会での男色の系統をひき、江戸時代においては若衆宿、近代においては旧制高校的な「バンカラ」の伝統をひくもので、ほんの数十年前まで「硬派」と称された男性群である。

「硬派」とは、同性とのみ濃密な関係を結び、異性には見向きもしない(あるいは、実はとても関心があるのだがその素振りを断じて見せない)ほど「えらい男」と観られる価値体系のもとに集結する男性集団である。

これは「痩せ我慢」と「美学」が混淆した不思議な風習で、現代において、この「硬派美学」の文化的背景を引き継いで同性愛者になっているケースは僅少だと思われる。

となれば残るのは「個人的事情」の方だが、おそらくこれは割とシンプルで、ようするに現代の男性の同性愛は、「女性不審あるいは女性恐怖の反動」としての生理現象だと説明できるだろう。

では彼らがなぜ「女性不審あるいは女性恐怖」に陥るのか、というと、表向きの理由を細かく見れば千差万別だろうが、とどのつまりは、自分の母親との関係構築に失敗した、あるいは母親との間でシリアスな亀裂が生じた過去があるからだ。

人間には男と女しかいないから、女から逃げれば行きつく先は男しかいない。

自分の母親との関係構築における瑕疵は、女性の異性愛者においても同じしくみで作用するだろう。そういう過去を持つ女性は、同性との親密な関係を築くことが苦手になり、母親の役割まで求めるような過度の男性依存に陥る可能性があるのではないか。

つまり当事者の性別を問わず、また異性愛、同性愛の区別を問わず、他者のとのコミュニケーション構築の鍵には、良きにつけ悪しきにつけ「母親との関係性」深く影響している、と自分には観える。

こういう風に考えていくと、人間の性的指向において、何が正常で何が異常かを断定するのがひどく難しいことに思えてくる。

観方によっては、同性愛にも、異性愛にも、ひとしく「病的」な屈折がそこかしこに見つけることができるだろうし、いっそのこと、「屈折していることが自然なのであり、屈折していないことの方がよほど不自然なのだ」と言いたくもなってくる。