「学力」に関する覚え書き

世帯年収が高い家庭や、学校外教育支出が多い家庭の子どもほど学力が高い」いう議論を近頃よく見聞きする。

外形上は確かにそうなのだろうか、因果関係でいうと、野球に打ち込んだ経験がある親を持つ子供は野球に入りやすいように、重負担の勉強経験者の親を持つ子供は、勉強に取り組みやすい、というふうにとらえたほうが当たっている気がする。

例外も多いのを承知の上で、粗っぽい議論をすると、勉強経験者の親は学歴(あるいは学校歴)が高く、よって知的労働者である確度も高く、ひいては「世帯年収」も高いので、「学校外教育支出」を注ぎ込むポテンシャルがあるということで、単に「家に金があるから子供の学力が高くなる」というわけではない。

勉強未経験者の親は、たとえ高収入でも、子供に勉強にさせることに意義を見出していないか(勉強しなくても自分は社会で成功できたから)、見出していても的外れな教育投資しかしない(ただ闇雲に塾に放り込むとか)だろうから、子供の学力にはつながりにくいと思う。

「学力」とは何か。これは、ひとまずは模試の偏差値が高いとか、一流中学・高校・大学の入学試験を突破する力ぐらいに世間一般は捉えているだろうし、それで十分だとも思うが、このテーマをもう少し深掘りして考えてみると、

「学ぶ」は「まねる」と語源を一にするといわれ、要するに学力とは平たく言うと「人のまねをする力」が本質である。おそらく「人のまね」をするには三つの能力が必要で、一つ目は対象を「観察する」力であり、二つ目はそれを「記憶する」力であり、三つ目は同レベルでできるようになるまでの反復訓練に「耐える」力である。

「観察する力」を才能の産物、「覚える力」を才能と努力の産物、「反復訓練に耐える力」を努力の産物だと観ると、「学力」とは「スポーツをする力」と同じレイヤーにある人間能力のひとつと観じてほぼ間違いないと思う。

学力にも、スポーツにおける身体特性のような「頭脳特性」があると観じてよいと思う。だからゴリラのような体格の大男に鉄棒をさせてもモノにならないように、その学力種目に適正がない頭脳特性を持つ子供にむりやり勉強を仕込んだところでモノになる見込みはない。

頭脳特性は身体特性のように目に見えるものではないから、無理やりにでも仕込めばなんとかモノになるはずだ、という思い込みから親が逃れるのは容易ではない。100㎏を超える体重の子供に吊り輪を強制する親はいるまいが、こと学力においては同じ愚を犯しやすい。

重要なのは、子供や生徒の頭脳特性、つまり、何に対して学力を磨くのがこの子の生来の資質に適合しひいては幸福に導けるか、をどう判断するかである。ここで親や教師が、自分の都合(家業である医院の跡継ぎにするために医学部に入れるとか)や偏見(一流以外は大学じゃないとか)や見栄(隣の子供と同じ中学にねじ込まないと恰好がつかないとか)を持ち出すと、事態は収拾が着かなくなる。

必要なのは、親や教師自身の「学力」である。それは子供を観察する力であり、そのたたずまいや振る舞いを記憶する力であり、それについてたえず考え続ける力である。

親や教師は、子供の人生を導くにあたって、何から「学ぶ」のか。つまり何を「まねる」べきなのか。途方もない問いだが、これは古今東西の賢人、あるいは反面教師としての愚人たちの言動や行動としか、ひとまず言いようがない。

観察し、覚え、考え続けたといって、だから何をしなければならないということもない。観察し、覚えて、考え続けた結果、何もしないという結論に落ち着くことだってあり得、それが最善であることも実際には多いのである。