夫婦の姓についての覚え書き

 イヴァンカ・トランプさんは、クシュナーさんという夫がいるのに元の「トランプ」姓をそのまま名乗っている。一方、ヒラリー・クリントンさんは、夫ビルの「クリントン」姓をつかっている。このあたりの、欧米の既婚女性における姓の選択の基準がどこにあるのか、よくわからない。ようするに、結婚後の姓をどうするかは「個人の自由」と言うことなのか。

日本の場合、既婚女性は夫の姓を名乗るケースが多い。夫側が妻の姓を名乗る場合は、「妻の実家の家系断絶を避ける」あるいはそれに近い事情があるのがふつうで、特にそういう背景がない場合は、結婚した女性は戸籍上の姓を夫のそれに揃えるのがオーソドックスな流れになっている。

ちなみに、自分は結婚した男女が別姓(いわゆる夫婦別姓)にすることは反対である。これはひとえに、生まれた子供の姓が不安定になることが理由だ。

自分が結婚したときもその「流れ」に乗って、姓をどうするかを妻と議論した覚えはない。もし妻の方から「自分の姓を名乗ってほしい」と言われてたら自分はどう感じただろうか。正直に言えば、自分はそういわれることを、どこかで恐れていた。

ある因襲があり、片方にそれに反することに抵抗があり、片方がそれに従うことに抵抗がなければ、その因襲は、たとえ不合理なものであっても、そのまま継承されることになる。自分は妻の姓にすることに抵抗があり、妻は自分の姓にすることに抵抗がなかった(あるいは有っても自分よりは薄かった)、だから我が家は自分の姓になったのだが、

これから、そんな「流れ」や「因襲」の存在は正念場を迎えることになる。もともと「結婚したら妻は夫側の姓を名乗る」なんて、憲法にも民法にも書いておらず、ようするに男尊女卑イデオロギーの残滓(似たようなものに、皇位継承における男系男子思考がある)に過ぎないのだから、妻から「なんでこちらがあなたの姓を無条件に名乗らなくてはならないのですか?合理的な説明を求めます」と詰問されれば、夫は口ごもる他ない。

夫としては、妻の姓を変えることに無闇に抵抗するのはいかにもケツの穴が小さいようだし、かといってムザムザ言われたとおりに妻の姓に変えるのも「男の沽券」に関わるようにも感ぜられ、どっちにしても進退窮まるのである。

そして人間の本性はまさに「進退窮まった」時にこそ出るものだから、自分は強く望まれて結婚するという自信があり、夫になる男性をちょっといじめてみたいという気がある女性は、試みに「あたしたちって対等なはずでしょ。だったら結婚したらあたしの姓にしても良いってことよね」と言ってみたらどうか。どういう結末になるかは責任は持てないが、夫になる相手の人間性を少なからずかいま見られることは請け負う。

ただこういうこともいえる。夫が妻の姓に変えることに抵抗を覚えるのは、不合理な因襲が厳然として存在するからこそであり、これが消滅すれば、同時に夫も「苦悩」の種もなくなるのである。つまり夫の方も因襲の犠牲者であるのだ。

世の中は、思っているよりなかなか変わらないものであるし、思っているよりあっさり変わるものでもある。自分はこの「結婚後の姓」の問題は、後者であるように思うのだがどうだろうか。