言葉の継承について

 普通は漢字にするような言葉でもひらがなで表記している文章をたまに見る。「日本人たるもの、やまと言葉はひらがなで書くのが本当だ」みたいなこだわりがあるのか知らないが、読みにくいうえに幼稚な自己満足にひたっている印象を受ける。

そういう自分にも、普通は漢字にすべきところをいつもひらがなにする言葉がある。それは「付く」という言葉で、これを書くときは「つく」とひらがなにするか、または意味が変わらなければ「着く」にしている。理由は特に無く、なんとなく「付く」という2文字の造形が美しく感じないのである。

自分のことはさておき、パソコンが片っ端から漢字に置き換えてくれるご時世で、自動変換されためったにお目にかからない漢字をそのままにしておくのも芸がないし、気恥ずかしくもある。

かといって訓読みという、漢字の意味を汲んで日本流に読み下すという古人の智慧と努力をないがしろにしていいわけがない。ひらがなが充満した文章を書くのはそういった不遜さがあり、言い換えれば、日本語の継承に貢献していない感じがする。

「日本語の継承に貢献する」とは大げさなようだがそんなことはない。言語の継承への貢献は、知識人や著述家だけではなく、その言葉を日常語にしている人々すべてがなし得ることなのである。

紫式部松尾芭蕉といった有名人だけが日本語を継承したわけではない。日本語を継承してきたのは幾億人もの過去の名もない庶民だちであって、今も、日本語を母国語にしている一人ひとりがその役割を担っているのである。

意思伝達の手段としての言葉は、たとえささいなつぶやきでさえも他者と共有されることが前提になっており、その一つ一つが日本語の今を顕すとともに、未来を形成する。これは本人に自覚があろうがなかろうが、確かなことだ。

たとえば小学一年生の作文は、それを読むベテラン教師の言語観に何らかの影響を与えている可能性がある。言葉による表現は湧き出る泉のようなもので、その源がいつどこからしみ込んだのか、当人でもうかがい知ることはできない。