生と死のフィクションとリアリズム

 客観的実在と認識する主体がそろってモノは存在するのだから自分の死は世界の終わりと同じであり、自分の死後も世界が存在すると考える方がフィクションである。 

「自分の死とともに世界は崩壊する」というリアリズムは、多くの人は自分の死に直面しないと気付かない。この本当の恐しさに気付いていないからこそ「終活」などと、自分の死を他人事のように扱うことができるのだ。 

つまり「自分の死後も世界は続く」という「フィクション」にでもすがらないと、人間は、自分の死と正気で立ち向かえない。 人間の心は、ことほど左様に「弱い」。

「Aさんが死んでも世界は続く」というのは、他者であるBさんにとってのリアリズムであり、当の死んでいくAさんにとってはフィクション以外の何物でもない。 

ただ、人間には、リアリズムで窒息したあと、フィクションで息を吹き返すという面がある。自分が死んだあとも世界は続くという「空想」は、死にゆく人の心細さを大いに救済する効果がある。

生きている間に、自分の葬儀の様子を知ることや、埋葬される墓を見ておくことは、「自分の死後の世界の継続」という儚いイメージを確固たるものにする効果がある。