「死後」の世界

哲学でいう「独我論」とは、実在しているのは自分自身だけで、それ以外の他人やモノなどはすべて妄想だという考え方のことだ。

「そんな手前勝手な、自己中心的な話はあるものか、他者は妄想ではなく、確かに存在しているではないか」と、我々のコモンセンスは反発するが、人間がデフォルトで死を怖がる本当の理由は、この独我論が心の奥底にあるからである。

つまり、人間である以上、あまねくこの「妄想」の中にいるのであり、さらに言えば、この「妄想」は真実でもある。

 色は光が分解したものであるように、モノ(物質・他人・全世界)は、私(認識する主体)が分解した欠片だ。つまり、モノの存在は、「私」による知覚が必要であり、言葉を換えると、モノが存在するには「モノ」自体と認識する主体がそろうことが絶対条件である。

死とは、「私」という認識の主体が消えてなくなることだから、それ以降あらゆるモノは存在しない。つまり、死は、世界全体が崩壊することと本質的には同じことなのだ。

人間の死への恐れの本質は、この「世界全体の崩壊」である。一説によると、全世界で一日に15万の人間が死んでいるそうだから、言うなれば、その人数分世界は日々崩壊しているということになる。

これを逆から眺めてみると、人間が死を恐れなくなる2つのメソッドが明らかになる。

一つは、たとえ肉体は消滅したとしても「認識の主体は消滅しない」というビジョンであり、もう一つは、自分が死んだ後も世界は崩壊などせず永遠に存在し続けるという確信である。

おそらく、この二つが二つとも揃わないと、人間は、死に際して大なり小なりそれを恐れることからまぬがれないだろう。

宗教の主要な使命は、一つ目の「たとえ肉体は消滅したとしても認識の主体は消滅しない」というビジョンを、宿命的に死をまぬがれない人間たちに明確に示すことにある。様々な宗教が、それぞれの取り組みをしており、このビジョンを提示しない宗教は、宗教の名を冠するに値しない。

仏教においては「輪廻転生」がそのビジョンにあたる。ただ、ブッダ原始仏教はインドの土着宗教が説いていた輪廻転生を否定していたから、生身のブッダは、宗教家というより今でいう人生相談回答者、あるいは心理カウンセラーのような個性の人だったのだろう。

もう一つの「自分が死んだ後も世界は崩壊などせず永遠に存在し続けるという確信」は、さらに二つの方向性によって支えられている。ひとつは、自分の生きた証への誇りであり、もう一つは次の世代への遺産の継承である。

この「誇り」と「継承」が、自分の死後における世界の継続を確信させ、その壊の恐怖を薄めることができる。たとえば、人間がその晩年になって勲章や褒賞のたぐいをほしがる理由は、生前の誇りを自分なきあとの世界においても固定化させることによって、少しでも死の恐ろしさからまぬがれたいからである。

しかし、誰でもお国から勲章をもらえるわけではないから、人間にとって真に重要なのは、「次世代への継承」であるということになる。

ここでいう「次世代」は必ずしも自分の子や孫のことではない。自分が身につけた文化的ふるまいや教養や技能、人生観や自然観、見いだした文明的合理性を、次の世代へ伝播させていくというきわめて重要な役割を、「自分がたしかに担っている」という自覚である。

この自覚が深ければ深いほど、人間は死を恐れる情動を希釈することができる。あるいは、死と真正面から向き合うことができる。

現代人(の日本人)は、科学的思考を根拠に「魂の不死」や「輪廻転生」などハナから信じていないし、負の遺産を果てしなく子々孫々に先送りして涼しい顔をしているぐらいだから、自分が死んだ後の世界の実在も本音のところではまるで信じていない。

いったいどうしたことかと思うが、そのツケは、自分の死に臨んだときの「果てしなき、底なしの恐怖」という形で、キッチリ支払わされることになる。