無邪気な変態

 現日本国憲法が国家権力を縛る立場であるのに比して、自民党憲法草案は国民を縛ることを主眼にしているのだが、とても不思議なのは、こういう憲法草案を作(りたが)る自民党の誰かは、自分たちは国家権力の側に永久に居続けられると無邪気に信じているきらいがあるところだ。

おそらくこういう人たちは、他人を縛るのも好きだし、他人から縛られるのも好きなんだろう。ようするに変態である。

なお、憲法で定めなくては国を大切にする心も養えないし、国歌や国旗も大切にすることはできないとしたら、日本人の精神の劣化はもう度し難いレベルに達しているわけで、そんな民度の国民を、今さら法律で矯正しようとしたところで、最早どうすることもできない。

拉致被害者蓮池薫さんの著作に、こういう一節がある。

「思想はあくまで内面的なものだ。統治者は国民ひとりひとりの胸の内を開いて見ることはできないので不安に陥る。その不安を鎮めるために、思想を形として残そうといろいろな手だてを考える。しかし、その形となるものがかえってカモフラージュになって人の思想を見えにくくする。」

 北朝鮮において行われている、胸につけるバッチや部屋に掲げる「御真影」といった崇敬心をの「見える化」は、かえって本心を見えにくくしている。「国歌や国旗を敬え」と無邪気に連呼する人々は、その義務化が、却って「敬う心」を空洞化させることに気づいていない。