正岡子規「死後」

 引き続き、死について。

 正岡子規に「死後」いう文章がある。この文章の中で子規は、死には主観的な死と、客観的な死があると述べている。この考え方は、先述した「一人称の死(自分の死)」と「三人称の死(他人の死)」という考え方と符合するところがある。


正岡子規(1867-1902)

もっとも子規のいう「客観的な死」とは他人の死ということではなく、自分自身の死ではあるがそれを恰も他人ごとのように観ずる俯瞰した視点、と言う意味である。

子規は、「主観的の方は恐ろしい。苦しい、悲しい。瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方は、それよりもよほど冷淡に自己の死ということを見るので、多少は悲しいはかない感もあるが、ある時は寧ろ滑稽に満ちて独りほほえむようなこともある」という。

客観性からユーモアが生まれ落ち、それが人を救う瞬間がある。

「去年の夏も過ぎて秋も半をすぎた頃であったが或日非常に心細い感じがして何だ呼吸がせまるようで病床で独り煩悶をしていた。このときは自己の死を主観的に感じたので、あまり遠からんうちに自分は死ぬるであろうという念が寸時も離れなかった。(中略)

厭な一夜を過ごしてようよう翌朝になったが、矢張り前日の煩悶は少しも減じないので考えれば考えるほど不愉快を増すばかりであった。然るにどういうはずみであったか、ある主観的の感じが、フイと客観的の感じ変わってしまった。」

特に自分の心持ちを必死に切り替えようと意図したわけでもなく、「フイと」自分の死が主観的なものから客観的なものに裏返ってみえたのだという。

困難やそれに伴って生じる苦痛の極みにおいて、「これは果たして現実なのだろうか」と訝る奇妙な実感の喪失、あるいは、目の前の全てが自分が預かり知らない他人事のように見えてくる体験は、自分自身、身に覚えがある。

 彼の亡骸は小さな早桶(急拵えの粗末な棺桶)に入れられ、人夫に担がれてある田舎の墓地に埋葬される。墓標はそこらにあった「手頃な石」ですませる。葬儀には死者の友人である二名の男が参列し、僧侶が形ばかりの読経をする。周囲は人通りもあまりない、極めて静かな僻村の光景が広がっている。参列した二人は、寺で精進料理を食べ、その夜はそこに宿泊し、翌朝は帰って行く。

彼は自分の葬儀の一部始終をそう空想しながら、「自分はその場には居ぬけれど、何だかいい感じがする。そういう具合に葬られた自分も早桶の中であまり窮屈な感じもしない。こういう風に考えてきたので、今までの煩悶は痕もなく消えてしもうて、すがすがしいええ気持ちになってしもうた」という。

自分の苦境を他人事のように眺め苦痛を和らげるのは心理学の認知療法に似ている。また、おそらく彼自身にその顔がはっきり見えている二人の友によって世間並みに踏むべき手続きを踏んで葬られるという物語には、彼の死への不安や苦痛を和らげるものがあったのだろう。

なお、死んだ本人自身は成すところを知らない「葬儀」は、ある意味、人生の全課程を終了したあとに手渡される通信簿のようなものなのかもしれない。

葬儀が死者の来し方を浮き彫りにする。派手だが虚しい人生には、派手で虚しい葬儀が相応しく、地味で暖かい人生には、地味で暖かい葬儀が似合っている。蛇足ながら、そう考えると、ときどき有名人や財界人が行う「生前葬」は、通信簿の盗み見や偽造にあたるのかもしれない。