場合によっては自分が存在しなかった世界

 最近私は子供から「お母さんはもっとマシな人と結婚すればよかったのに」としばしば言われる。

私から遺伝したある特質が、子供が気に入らないゆえの発言だが、それが何なのかはここで書くに忍びないし、この話の本筋でも無いのでさておき、もし「お母さん」が私より「もっとマシな」別の人と結婚していたら、そもそも自分はこの世に生まれていなかったことに、子供は気づいていない。

私は子供にその論理が無理筋であることの説明を何度か試みたことがあるが、相手はどうやらピンときていないようだ。ピンとこないには訳がある。子供にとって、自分の誕生を巡るコスモロジーは、おそらく、以下のようなものだからだ。

自分という「魂」が、世界だか宇宙だか前世だか、とにかくどこかに浮遊していて、それはまず母親の胎内に宿り、あとは父親の登場によってこの世に誘導される手筈になっている。そこに「父親」として登場したのが残念ながらこの私で、それによって自分はとにかくこの世に生まれたのではあるが、たんなる誘導役に過ぎない父親である私の負の遺伝的特質が、理不尽にも自分に悪影響を及ぼしてしまっており、これをどうしてくれるんだ、という憤懣である。それが「お母さんはもっとマシな人と結婚すればよかった」という父親否定発言につながっている。

私が考えているように、生物学だか生殖医学だか的には、私の存在無くしてそもそも子供の存在はないのだから(その確証が自分にも妻にもある。これについては自信がある)、子供のいうことはまるで理屈が通らない。しかし、子供が考えているような「自分の魂」的なものの存在を前提として、父親はもとより母親もその介添え役に過ぎない、という考え方がまったく荒唐無稽なものであるかといえば、そうは言い切れない、あるいは言い切りたくない、という気分が実は私の中にもある。

人間の生命の誕生を、メスの卵子とオスの精子の生物学的結合の所産と言ってしまえばそれまでだが、あらかじめ「魂」あるいは精神性の核とでも呼ぶべき原初的存在があって、両親はそれに肉体的形質を与えてこの世に送り出す役割に過ぎないというある種の「物語」には、たんに物語と片づけるだけで済ませるべきではない途方もない豊潤さがあり、子供は子供特有の純度の高い直感力でその価値を信じている、といえるのではないだろうか。

そもそも、現に確固たる存在である自分自身について「父親が違っていたらこの世に生まれていなかった」というような儚いにもほどがある存在だということを、子供がどうして信じられようか。いや、自分という存在感を確固たるものと信じ切っていることにおいて、実は子供と大人の区別はないのだ。

人間だれしも自分の存在を「必然」だと思っている。言葉を換えれば「場合によっては自分が存在しなかった世界」など想定することなど誰もできないし、そもぞもあらゆる認識の根源である「自分」が存在しなければ、宇宙も世界も歴史もすべてがはじめから存在しなかったのと同じことであり(つまり一人の人間の死は全世界と全歴史の崩壊に等しい)、そのことを直覚していることにおいて、私より子供の方が、相当上質なリアリズムを持っていることになるかもしれないのだ。

だから最近自分は子供にそう言われるたびに、「それは仕方がない。お父さんを選んだお母さんの責任だ」と開き直ることにしている。しかし、それだけでは子供の現在憤懣あるいは将来不安は解消しないらしいので、「お前のお父さん譲りのその個性は、今は不満の種だろうが、いつか自慢の種になる」と言い含めているが、どうやら何の根拠もない与太話に聞こえるらしく、今のところ、子供が納得している様子はぜんぜん見られない。