表参道 明治神宮


表参道沿いに残る「同潤会アパート」の建物

 表参道に用事があり、ほぼ十年ぶりぐらいに原宿界隈に行く。

どこの観光地でもそうだが、外国人がすごく多い。特に原宿はこれは昔からかもしれないが、白人が多い。道行く人々も気のせいかファッショナブルで、数十年前にはじめて原宿に行ったときに、自分の今の服装はこの土地のドレスコードに合っているのか、合っていないのではないか、と少し気後れした気分になったことを思い出す。

いいことか悪いことか知らないが、今自分はこの土地にふさわしい服装をしているかどうか、ということで気をもむような感性が、自分の中から蒸発して久しい。年のせいかもしれないが、でも、関西で育った義母は、京都に行くときはいまだに服装に気をつけているそうだから、そういうことにこだわる人は、高齢になっても、そうあり続けるのだろう。

用事の前に少々時間があったので、少し足を伸ばして明治神宮にいく。

途中のファミリマートで、氷が入った袋を買い、それを首筋に当てたり、アタマの上に載せたりして、体を冷やしながら歩く。中の氷があっという間に溶けていくのが音と感触でわかる。今日もすごい暑さだった。

明治神宮に行くのは初めて。文字通りの「鬱蒼とした森」の中に、本殿に連なる一本の太い道があり、そこを歩き続ける。

自撮り棒で歩きながら自らの姿を録画しつつマイクで何かをしゃべり続けている女性とすれ違う。はやりの「ユーチューバー」だろうか。何かの請負仕事なのだろうか。個人の趣味なのだろうか。

自分には自分を顔を撮る趣味は無い、自分は自分の撮影された顔に嫌悪感を持つた性質だから、仕事であれ、遊びであれ、こういうことをする人の気が知れない。こういうことをする人の気が知れない。

と、言っているが、実はこういうことをする人の気持ちを、自分は識っている。識っているから、逆に「識らない」ことを装っている。人間は人間に対して「気が知れない」ことはあまりない。

理解でき過ぎるから、あまりに身につまされるから、「気が知れない」と言う言葉を使って意識的無意識的の違いはあれ、戦略的に距離を置く、そういうケースが多いのである。

自分は政治家以前に安倍晋三という人間そのものを否定しているが、それは自分の中にある醜悪な因子が彼を見ているとガンガン共鳴するからである。有り体にいえば、自分はわかりすぎる彼を見ているのが辛いのだ。

つまり、自分は安倍晋三のうちに自分自身の、嫌悪すべき要素や、克服すべき課題を見出している。つまり自分は安倍晋三に負のシンパシーを感じているのである。

だから、逆に言えば、現在安倍晋三を政治的に支持している人は、彼の心性にはまるでシンパシーを感じていない可能性がある。安倍政権の経済政策によって利得を得たり、中国や韓国を敵視するのに、安倍晋三の心性を共感する必要はないから。

外人の観光客には、子供連れが散見される。中には赤ん坊やよちよち歩きの幼児を連れてきているケースもある。異国で子供が病気やけがをしたらどんなに心細いことになるか、ということをあまり気にしていないような豪胆さには驚くが、それだけ日本という国の文明度を信頼しているということになるのだろうか、とも思う。未開の野蛮国には、さすがに小さい子連れで行く気にはなれないだろうから。

アベノミクス・クロダノミクスの金融緩和は、空前のインバウンド景気を呼び起こした。日本が不当に安く買いたたかれている面はあるが、多くの外国人が日本を訪れるようになり、日本に愛着と良いイメージをもって帰国してくれて、その印象を拡散することには大きな意義がある。


境内の手水舎の外国人観光客

自分は外国語が不案内だから、何を援けることもできないが、一度中国人の女性に道を訊かれて案内したことがある。

新宿の南口の構内で男の子を連れた中国人の母親に「東口はどこですか」とスマホの表示できかれた。口で案内のしようがないルートだったので「東口」の表示が大きく出ている場所まで一緒にいき、生れてはじめて「シェイシェイ」の発音を生で聞いた。

彼女たちと別れたあと、そういえば子供パンダもシェイシェイだったなとその時思ったが、さっきパンダの方はシャンシャンだったことに気づいた。

山門から本殿までのエリアには石が敷きつめられている。通常このエリア(境内?)は砂利が多いような印象があるが、完全に石で敷きつめられている光景を、個人的には初めてみた。

皇統の系譜に連なる人物を祀る社で、伊勢神宮明治神宮は格別のものだ。伊勢神宮が祀っているのは伝説的存在である天照大神だが、明治神宮が祀っているのは実在の明治天皇である。天皇家の当時の存在の大きさを、明治神宮の規模やしつらいは後世にダイレクトに伝えている。


本殿のエリアには石が敷きつめられている