鳥瞰的知性について

 自分を利害から遠い位置において評論家然と物事を批評するのは一般的に卑怯な態度だとされるが、人は自分事ほど視野狭窄になり、他人事ほどその批評は正鵠を得たものになる傾向のあるので、それにも一定の社会的価値があるといえる。

ようするに「深い洞察」をするか、「広い視野で観る」か、の違いである。「広く深く見る」というのは個人には限界があるから、人間はだいたいどちらかの思考態度を場面場面で使い分けている。


井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」という言葉がある。これを「専門家は知識の範囲は狭いけれども深さを知っている」みたいにひとまず理解することも可能だが、これには別の解釈の仕方があるように思う。

井の中の蛙大海を知らずされど空の深さを知る」とは、簡単にいえば「知ることよりも信じることの方が重要だ」という意味だ。「知」の大海は広大無辺で、無知も物知りもその大海の水を一滴だけしかすくえない。これは知識がある人ほど痛感しており、そんなことを知らない「知識人」など紛い物である。

知識や情報が無駄だと言っているのではない。それらなくして人は1行も文章は書けないし、10メートルも移動することはできない。ただ知識や情報は「信じる」という目的を成すための材料あるいは手段に過ぎず重要なのは「信じる」の方で、そのためには必ずしも大海のように知識をため込む必要はない。


これは、名画を描くために何リットルもの絵の具は必要ないのと事情は同じである。

ただ、知の世界を「広さ」として捉えたときに、「鳥瞰的知性」というものの価値もあり得るのではないか、同時に、そんな気もしている。

柳田国男の「山の人生」という本に、炭焼きで暮らしている男が子ども二人の首を斧でたたき落とす話が出てくる。炭が売れなくて生活がひもじくなったので、上の子供が斧を研ぎ、父親に自分たちを殺して食い扶持を減らせばいいと提案し、父親は言われるがままに子供二人の首を斧で刎ねてしまう。

もちろん、これは悲惨な、あってはならない話だ。大人は、そして社会は、いたいけな子供をこんな痛ましい決意をさせるほど追いつめては断じてならない。

しかし同時に、この話では、ナルシシズムと自分への利益誘導だけに執心している近代的自意識が釣り落とした、人間が(さらにいえば動物が)本来的に持っている「鳥瞰的知性」というものが、幼い子供の純真さというエネルギーの力によって、見事にその姿を現しているように思える。

こういう話をお犠牲的献身といった美談調で解釈にしてはいけないのだが、自分をとりまく環境を正確に鳥瞰し、そこから自分の為すべき振る舞いを選び取り実行する力が人間は本来持っていることも、こういった極端な事例でしか今となっては知ることはできないのも事実だ。

話はさらに拡散するのだが、例えばある生物は「擬態」ということをする。枯葉そっくりになる虫や、砂そっくりになる魚のことだが、こういう芸当が可能なのは、生物が鳥瞰的知性を持っているからではないか。

つまり自分を取り巻く様相と見紛うほどにデザインの同調ができるのは、かれらが主観的要求や欲望だけに囚われず「ある環境の中にいる自分」を客観的に眺める視座を持っている証拠に他ならないのではないだろうか。