二十代の自殺に関する覚え書き

自殺を考えていた(いる)二十代の若者が話し合う番組を見た。

 藤村操が遺書を木肌に彫り込んで華厳の滝から投身自殺した時、友人の岩波茂雄岩波書店創業者)はその哲学的感性に共感した。しかし人間は「哲学的懊悩」などと言う抽象的な理由で自殺することはおそらくできない。これは「哲学的懊悩で自殺するというヒロイズム」が自殺の動機であると見る角度を換えて観じたほうがいいだろう。

このように「死後の賞賛や共感あるいは憐憫」を予定して自殺する形態の亜種にいじめによる自殺がある。いじめによる自殺は加害者が徹底的に社会から糾弾される運びになるから、これは被害者に残された唯一の復讐の手段として機能している。

しかし、昨日の番組に登場していた二十代の若者たちが希求していたのは、そういった死後の「見返り」を想定しての自殺ではない。「ただひたすらに自分の存在を消し去りたい」という、まるで別種の欲求である。

「ひたすらに自分の存在を消し去りたい」という欲求は自己肯定感の欠乏によって生じる。この自己肯定感の欠乏はどこから生じるかというと、それは彼ら自身がどういう社会的価値を持っているかなどはほぼ関係なく、現代における「家庭環境の崩壊」と「共同体の解体」という二つの理由に収斂される。

社会的価値がある人間と、価値がない人間がいるのではない。自分には価値があると確信している人間と、無いと思い込んでいる人間がいるだけだ。そしてその「思い込み」は自力で育てるのではなく、ほぼ全面的に外界からの作用に、不可抗力的に影響される。

人間の自己判定のメカニズムは驚くほど単純で、「バカ、ボケ、アホ、しっかりしろ」と外界から評され続けた人間は、自分をバカでボケでアホでしっかりしていないと判定し、「かしこい子、かわいい子、頑張る子」と言われ続けた人間は自分をかしこくてかわいくてもっとがんばろうと思うようになる。

いきなり私事になるが、自分の子供が生まれたときある人から「厳しく育てて下さい」と言われた。子供を厳しく育てるにはその背景には底なしの愛情がなくてはならない。親になったばかりの自分にはそこまでの愛情を子供に注げるか確信がなかったので、その人の意見を容れる気には到底ならなかった。

世の「厳しい教育」が多くの場合うまく作動しないのは、教育やシツケを隠れ蓑にして、親や祖父母が単に子供を自分の憂さ晴らしの道具としか扱っていないからだ。繰り返しになるが、「厳しさ」には巨大な愛情の裏打ちが要る。

「俺なんて何をしてもダメだ」という自己否定と、「俺なんてまだまだダメだ」という謙譲はそとづらはともかく内実はまるで違う。人間は、自己を肯定しなくてはたった一歩も前に進めず、たった一人の他者とも向き合えないしくみにできている。

人間が自己を肯定するか否定するかは、その人の社会的価値や機能の多寡とほとんど関係がない。それは十分な価値や機能を備えながら、自己否定の末に自滅していった多くの事例が裏書きしている。

自己肯定とは、めいめいが自己の中に養い育てるものというより、外部から無条件で与えられるプレゼントのようなものだ。「外部」には、家族と共同体という二種類がある。

共同体とは、その人の社会的な価値や機能の多寡とは関係なく、「その集団に属している」というたった一つの条件だけで一人の人間を受け容れ擁護するしくみのことだ。日本においてはかつては地域社会や地縁がその機能を果たし、近代においては会社組織がその擬似的な代用品になっていた。

人間の社会的価値や機能は、時間の流れによって様相を変化させる。まるで社会的に機能しない赤ん坊として生まれ、機能し始める生産年齢に達してから、働き盛りを経て肉体と精神の老衰をむかえて引退する。それだけではなく人間は大けがをしたり大病をしたりすることによってもその機能を減失させる。

どんなに有能な人間でも、無能者として生まれ、無能者として去っていく事情には変わりはない。

会社がかつて共同体の代用品として擬似的な位置にとどまっていたのは、その本来の経済的利得を目指すという性質上、どこまでも人間に機能や価値を求めざるを得なかったからだ。無能な子供は雇わないし、病の床に臥せた社員には給料は払わないし、老いた働き手には以後の居場所を与えない。これが原理原則である。

このように都市的な機能社会が「過酷」である一方で、その受け皿あるいは寄る辺としての共同体(地域社会)が存在していた。それは日本人の過半が農村に住み農業に従事していた戦前までさかのぼる話になる。

農村的、あるいは下町的な共同体は人間を機能や能力とは関係なく肯定し「ゆりかごから墓場まで」身も心も抱擁するしくみだが、機能の見本市たる都市は、人間を機能によって選別し使い捨てにすることによってその発展のダイナミズムを産み出してきた。そして現代においては日本は津々浦々まで機能社会化したといっていい。

こういった過酷な機能社会の現出は日本史上おそらく空前のことで、この過酷さが最も感性の柔軟な二十代の若者の心を痛めつけていることは想像に難くない。

だれしもが有能な機能を備え、社会における存在価値を担保しようと、「スキルアップ」や「自分磨き」に日々邁進し、周囲もその姿勢と成果を賞揚する。もちろんそれ自体は悪いことではないが、こういう社会の現出が日本史上空前の出来事であり、空前である以上、成員みながその過酷さに耐えられる保証はどこにもないことは確かだ。

都市が機能の見本市として在り続けるのは良い。そこに居場所を得るには未熟だったり、能力が衰えてしまった人間には決然と退場を迫るシステムは合理的だし効率的だ。問題なのは、農村的な地域共同体が解体し、日本全国が「都市」化の様相を呈することである。

人生においては誰しもが幼齢や高齢や傷病によって「無能」になる局面があるのだから、価値や機能の有無を問わず存在そのものを肯定し受け容れてくれる居場所がない過酷さの中では、おちおち呼吸をすることもできなくなる。

共同体の解体だけではない。家族の喪失の影響も過酷なものがある。これは、両親が離婚したり、兄弟が仲たがいしたりといったことだけではなく、非婚化が進むことによって、自分が「子ども」として副成員だった「第一次家族」が両親の死亡によって失われたあと、自分が「夫、妻、親」という主成員として構成する「第二次家族」を持たない人々が直面する問題でもある。

現代において二十代は未婚がほぼ常態になっているが、将来的にも、彼らには自分が結婚し、その成員がお互いを無条件で受け容れあうような、平穏な家庭生活を営むイメージ像がますます結びづらくなっている。

こういった社会構造的な背景が「二十代の自殺」にはある。この構造は極めて堅牢で、例えば、一時の「好景気による就職率の改善」などといった瞬間風速で改善するような生易しい代物では断じてない。

自殺した(あるいはしようとしたことがある)二十代の若者たちは、その過酷さに耐えきれなかった落ちこぼれではない。その過酷さにきわめて敏感に反応する感度と知性を持った人たちなのである。