地獄の業火と慈悲の灯火

 夏目漱石の「心」に出てくる「先生」が先生であるゆえんは、悩みを克服したのではなく、現在進行形で苦悩していた人だというところにある。おそらく実在のブッダも、伝説のような解脱した人ではなく、今まさに悩んでいる人であり、だからこそ身分の上下を問わない大勢に慕われたのではなかろうか。

王子として生を受けたブッダが、何をそんなに悩んでいたのか知らないが、おそらく個人的なとても切実な苦悩を抱えていたのである。

ブッダはその苦悩の原因を自分ではどうすることもできない、とても理不尽なものだと考えた。それはまるで大火災や大洪水のように、有無を言わさず、人々を焼き尽くし押し流していく、なんの慈悲も配慮も無い「災害」のように彼の眼には映じたのである。

けれども火災の本質である「火」と、洪水の本質である「水」は、ともに人間が生活を営んでいくのに必要不可欠なものだ。火は人々の心や身体を暖め料理をつくり、水は渇望を癒し身体を構成する。

釈迦が説く「慈悲」や「慈愛」という灯明は、人間を焼き尽くす理不尽な業火の燃え残りではなかろうか。比叡山に千年燃え続ける灯明には、織田信長が焼き討ちした時の炎が燃え残っているかもしれない。

もし真の意味で慈愛に満ちた人がどこかにいるのならば、その人はきっと、かつて地獄の業火に焼かれた過去を持つ人、別言すれば、抵抗のしようがない理不尽さに徹底的に蹂躙された経験を持つ人ではなかろうか。

注意を要するのは、そういう過去の経験を持つ人が慈悲の人になるとは限らないということである。限らないどころか、現実の圧倒的な力に押し潰されるのが普通であり、そういった精神の高度な昇華は一種の奇跡のようなものですらある。しかしそういう奇跡的な人がいたからこそ宗教や哲学や理想が生まれ、保たれてきたこともまた事実なのである。