ヤジに関する覚え書き

都議会で都の晩婚・晩産化対策への取り組みを糺す女性議員へ発せられたヤジの下劣さと、ヤジ主を特定し然るべき処分を下すことの必要性はともに疑うべくもないが、それを前提にしつつ、以下もう少し考えてみる。

小学生の学級会から国会に至るまで、あらゆる議論の場には「ヤジ」というものが発生する。ヤジとはせんじつめると「本題とは直接関係がない、論者の私的な事情や行状を揶揄する不規則発言」である。

ヤジとは、議論の過程での反駁や批判ではなく、非難のための非難であり、その最終目的は、相手を気持ちを動揺させ態度をタジロがせることにある。女性議員はヤジを聞いたとき「怒りと言うよりショックで頭が真っ白になった」と言っているが、そういう意味ではこのヤジは当初目的を存分に果たしたといえる。

「おまえの母ちゃん出ベソ」という言葉がある。これは口げんかで劣勢になった方が、相手に向かってその母親の肉体的特徴をあげつらって動揺を誘い、形勢を挽回しようという意図のもとに発せられる(ことが多い)言葉だが、目の前で論じあっている議題と一方の母親のヘソの形状とは本来なんの関係もないはずだ。ここにヤジの本質がある。 

最近では、安部首相が民主党岡田代表に向かって吐いた「わかってないんだよな」というヤジがニュースになった。この発言は「集団的自衛権の行使」という公的な議論を行っている最中に発せられたもので、発言者の個人的な理解力あるいは知性の不足の揶揄であり、ようするに「バカはひっこんでろ」というニュアンスを色濃く含んだものだったが、

本来、集団的自衛権という高度に政治的な議論と、岡田氏の理解力や知力の不足は、なんら関係がない。もし、岡田氏の頭脳に問題があるのならば、討論の場で論破して客観的にそれを白日の下にさらせば良いのである。それをすることなく、論敵の頭の出来を直接的な言葉で揶揄したという段においては、この発言はまさに「おまえの母ちゃん出ベソ」レベルだったといえる。

今回の女性議員のケースにおいても、女性議員の個人的な属性と、その政治的主張とは、本来切り離してしかるべきものだ。そこを結びつけてあげつらう卑劣は疑うべくもないが、ではなぜこのような「卑劣」な行為が、世界中の議論の場で営々として行われているのだろうか。

それは、「あなたの主張することは正しい(かもしれない)が、あなたにはそれを言う資格もないし、立場でもない」という否定が、人間社会においては一定の効力をもっているからである。たとえ同じ内容のコンテンツでも、それを発する人間の立場やパーソナリティによって、受け入れられたり拒否されたりする、それが人間社会の実相であり、まさに議論の場でヤジがあまねく跋扈する本質的な理由でもあるのだ。

たとえば「人間は皆愛しあわなければならない」というコンテンツを、ローマ法王がミサの席で言うのと、連続殺人犯が法廷の場で言うのでは、聴衆の受け取り方はまったく違う。前者は信者たちによってありがたく受容されるが、後者は傍聴席からは「どの面さげて言ってるんだ」と拒絶されるだろう。

幕末、日本が幕府を倒し西欧列強に互す国家体制をつくりあげるには、「薩摩と長州が手を組むことが必要である」ことは多くの人々の共通認識だったが、実際にそれを実現するには坂本龍馬のパーソナリティを必要とした。つまり、西郷と木戸は「龍馬のいうことだから」そのコンテンツを受け入れたのである。

そしてヤジとは、「そのコンテンツ自体は正しい(のかもしれない)が、それをあなたが言うことはヘンだ」と聴き手が感じたときに、しばしば発生する。このように、「発信するコンテンツ」と「発言者のパーソナリティ」には本質的に密接な関係があるのだが、公の場においては、結びつけても良い場合と、結びつけるべきではない場合が別れる。

渦中の当事者が社会問題上の発言をする場合、たとえば公害問題などにおいては、「公害で自分の生活はメチャクチャになった。どうしてくれるんだ」という立場を採るのが通常である。この場合、その主張コンテンツと発言者のパーソナリティは密着している。

今回のヤジ騒動においても、女性議員はちょうど「晩婚化」渦中の当事者だった。しかし、一人一人の晩婚あるいは非婚の背景には、それぞれに浅からぬ理由やこみいった事情があり、公害のように他者(お上や企業)を一方的に責め立てる立場は採りづらい。ひらたくいうと、「自分が結婚していないのも子供を産んでいないのも、都の晩婚化対策がお粗末だからだ。さあ、どうしてくれるんだ」ということは、常人の神経を備えていればとても言いづらいものだ。

だから女性議員は、自分の具体的な当事者性は抜きにして「都議会議員」という公的で抽象的な立場で、一般的社会問題としての晩婚化を取り上げようとした。このスタンスはまったく正しい。政治の本質は、巷に渦巻く具体的な利害や情念の、抽象的な調整システムであり、政治家の役割もまさにそこにあるからだ。(実際の政治の現場は権力欲や自己顕示欲の修羅場なのだが・・それはさておき)

だから、議場は、この女性議員が選んだ抽象的なスタンスを尊重する義務があった。義務があったにも関わらずそれをわきまえることなく、女性議員のパーソナリティにまで踏み込んで揶揄したのは、重大なルール違反であったのである。まずはこれが一点。

さらに、それがよくある「セクハラはげおやじのお下劣なヤジ」で済まされず、燎原の炎がここまで拡がったのには、もう一つ別の理由がある。それは、現代においては晩婚化やそれに関連した少子化不妊問題が、「琴線」や「逆鱗」むき出しの極めてナーバスな国民的イシューになっているという事実だ。

おそらくヤジ主は、そういった現状認識が乏しかった、というかほとんど皆無だったに違いない。こうまで現代社会の動き対して感度が鈍い人間が、いやしくも都政を動かす立場にある現状には改めて驚くがそれはさておき、

今回のヤジ主の失言の構造を整理すると、まずは「発言のコンテンツと発言者のパーソナリティを不当に結びつけた」、次に「問題のナーバス性についてまるで無頓着だった」という二つに収斂されるだろう。だが、それを諄々と説いても、おそらくヤジ主の頭はまったく受け付けないだろう。それが理解できるぐらいなら、はじめからあんな下品で愚かで、そしてわが身を滅ぼすような危険なヤジは飛ばさなかったであろうから。