棄てるという哲学

さきごろ、ヨーロッパのある中世遺跡で便所の跡が見つかったというニュースを視た。そこには糞便が大量に残されており、斯界の研究者たちは「まだ臭いがするほどだ」などと喜んでいる。

通常、人間の糞便の臭気に興奮するなど特定の嗜好の持ち主ぐらのものだろうが、誰もこの研究者たちの反応を怪しまない。それはさぞや貴重な遺跡なんだろうな、という価値観を素人たちも共有している。

では本来忌避されるべき糞便が文化的価値のあるものに変えたものの正体は何だろう。それは時間の経過である、というほかない。

たとえば江戸時代に動画レコーダーを持ち込んで、現代の監視カメラのように街角を定点録画してデータを持ち帰ったら、とてつもなく貴重な学術的・文化的価値を持つ資料になることは間違いない。

しかし、その動画を同時代の人たちに見せたら、ごくありふれた日常風景として一顧だにされないだろう。「なんで、こんなものを未来の人たちは有り難がるのかわからない」といった反応を示すだろう。録画装置の機能そのものは驚嘆するだろうけど。

おおよそ「モノ」には時間の経過と共に価値が滅却し終局的には壊されたり棄てらたりする宿命があるが、まれに、時間の経過がある閾値を超えると逆に価値が増す奇妙な運命を辿ることがある。いわゆる「ビンテージもの」と呼ばれるものがそれにあたるのだが、

ただ、どういう性質のモノが、どのくらいの時間を経れば価値が逆進するのかはきわめて見当がつきにくいので、人間はひとたび「古くさい」と感じたものは、たいてい惜し気もなく壊し、捨てる。

これはモノに限らず、生活習慣や価値観などの「コト」も同じことで、「旧弊」「封建的」「前時代」「因襲」といったレッテルを貼られて社会から葬り去られたことは、有史以来数知れない。そして一度棄てられたモノ・ゴトは、同じかたちで蘇ることは二度とない。

これらの中には、幾時代を経てもつまらないもので有り続るモノや、捨てられてしかるべきコトも多いのだろうが、では「捨てられてしかるべき」という判断基準はいったい何なのか、と考えるとはなはだ心許ない気分になる。

人間の真性は、何を好きかより何を嫌うかに鮮明に顕れる。人間は何かを好むふりをし続けることは得意だが、何かを嫌うふりをし続けることは容易ではないからだ。

この論理を援用すれば、ひとりの人間や一時代の社会の価値観は、何を大事にしているかより何を棄てているかに顕れることになるだろう。「棄て方」とは、人間や社会の最も先鋭的な哲学の表現であり、その表現は、潔さを称揚されるか愚かさを糾弾されるかの、ギリギリの瀬戸際にたたずんでいる。