ある遺品候補

 仕事帰りにある都心の大型書店に立ち寄ると、その入口の脇で浮世絵を販売をしていた。

目玉は、安藤広重の「東海道五十三次」全五十五枚と、葛飾北斎の「富嶽三十六景」全四十六枚で、それらは、明治から昭和にかけて刷られた作品の寄せ集めではあるが、まっとうな彫師も刷師も最早ほとんど残っていない現況をかんがみると、これだけの上質の作品が揃うことは今後まずないだろう、というのが販売員のおじさんの講釈であった。

生まれて始めて見る原寸大の富嶽三十六景は、思ったよりコンパクトなサイズだった。驚嘆したのはその描線で、これが刃物の先から刻み出され版木から刷られたとは到底思えないほど、華奢で繊細で力強かった。

「おじさん」に、この浮世絵の版木は江戸時代から伝わったものかと訊くと、何をバカなことをという顔をしつつも、こう教えてくれた。版木というものは消耗品で、すり減ったら風呂釜の薪にでもなる他はないのだが、ただ版木の元になる型紙は江戸時代から一子相伝で伝わるもので、それを元にして彫師は新しい版木を都度刻むのだ、という。

それにしても一枚の桜の板切れから、これほどの緻密な描線をこれだけの数だけ刻み出すには、ずいぶん彫り損じもするのだろうなと思い、そしたらどうやって修復するのかと訊くと、いい職人は手元が狂うなんてことはあり得ない、とおじさんはいう。

日本の芸術は書道の運筆でも日本画のドローイングでも息を詰めてのひとふで勝負で、西洋のペインティングのように何度も同じ場所を撫でながら試行錯誤するようなことはしないのだ、それは版木彫りも同じことだ、とおじさんはいう。

つまり、万が一失敗したら、版木ごと棄てたりあるいは裏返して、一から彫り直したということなのだろう。思えば北斎作の浮世絵に生命感が宿っているのもその刷られた描線に躍動感があればこそで、その線を生かすも殺すも彫師の技量ひとつにかかっていると思えば、彼らに要求されてきた技能的峻厳さは、木彫彫刻さながら、あるいはそれ以上だったと言えるのかもしれない。

 「東海道」「富嶽」両セットともに値段は三十数万円だった。この金額が美術品相場的にどうなのかは知らないが、少なくともこの作品集の一枚一枚が、途方もない技巧で造られているいうことは自分には直覚できたから、これが「木版手刷り」であるというただその事実だけでも、値札以上の値打ちはあると思った。

ただ、世に「無い袖は振れない」という諺があるとおり、即決現金で買えるほどのヘソクリはなく、かといってローンで買うにも月々の小遣いからその費用を削り出すのは不可能に近く、かといって家人が理解を示して家計から拠出する奇跡などは思いも及ばず、かといって会社に内緒で副業をするにはリスクが高すぎて、結局は諦めざるをえないのかな、と思っていたところに、新聞の短歌投稿欄にこのような一句があるのが目に留まった。

気がつけば遺品となるべきものぞなき安物買いを吾はかなしむ

今際の際に、この「かなしみ」を味わわないためにも、ここはひとつ半ば破滅覚悟の痩せ我慢を振るって買っておくべきではないのか、という気もしているのだが・・。