迷走外交、唯一の果実

拉致被害者の家族にとってはどんな形にせよ肉親が戻ってくる可能性が高まるのは喜ばしいところで、それについて何も言うことはないが、今回のような「解決への前進」の仕方は、いかにも不味い。

今、北朝鮮と日本は「中国と韓国を敵に回している」という対外状況を共有しており、そのことが両国の一種の融和状況の推進力になっている。少なくとも北朝鮮には、「拉致解決」をちらつかせ日本を取り込み、ナンバー2粛清以来完全に中国にそっぽを向かれ、まったく寄る辺がなくなった孤立外交のデメリットを払拭しようという企図が明確にある。
 
一方、日本側にとってのメリットは、拉致問題の解決を外交得点にして国民に誇示し、株高だけによりかかっている政権基盤をさらに強固にできるというものがある。だからこの一見うまい話にホイホイと乗ろうとしている。

日本のこういった外交的独善を、米国と韓国は苦々しく思っている。しかし、日本の拉致問題解決への協力を以前から表明してきた米国や、日本と同じく北朝鮮による拉致被害にあっている(その規模は日本の比ではない)韓国は、解決前進そのものをあからさまに非難できない事情がある。だから明確に不満の立場をとることはない。

しかしかれらの外交的ステートメントを読むと相当なはらわたの煮えたぎりを抑え込んでいることが見て取れる。

もうひとつ、今回のような「融和」の背景には、日本と北朝鮮のメンタリティに通底するものが形成されていることがあるのではないか、と自分は思っている。気色の悪さこの上ない現象ではある。

米国の大統領を「黒いサル」だと口汚く罵倒したり、韓国の沈没船の悲劇を「それみたことか」と溜飲を下げるような視点で蔑むのは、多くの日本人が潜在的に「やってみたらさぞや痛快だろうな」と思っていたことそのものでもある。この欲求においても日本と北朝鮮は「共感」している。

なんという軽薄でレベルの低い部分での「共感」かと思うけれども、浅はかな動物的・感情的共感ほど根深く、堅固なものだ。ここで見え隠れするのは、幕末以来(ひょっとすると徳川時代鎖国以来)の反西欧的攘夷思想であり、明治時代の脱亜入欧政策・朝鮮半島植民地化以来の朝鮮人蔑視思想である。

「じゃあ、お前は拉致被害者が帰ってこなくてもいいのか」と言われれば、自分は二の句を継げなくなる。帰ってこないよりも帰ってくるほうがいいに決まっているから。

しかし、帰り方(まだ帰ってきていないが)がいかにも不味いことについて、日本人は内心忸怩たる思いを抱いていた方がいいのではないか。少なくとも、この「成果」についていかにも華々しい外交得点であるかのように振る舞うのは、極めて卑しいのでやめた方がいい。