歴史の継ぎ手

 モノやコトというのはそれを認識する主体があって初めて「存在」することになる。この段でいうと自分という認識する主体が無くなったあと(つまり死んだあと)の世界は存在しないのも同じであり、つまり「自分の死」は「地球の破滅」とほぼ同義だという考え方がある。

「自分の死はイコール地球の破滅である」という考え方には一定の理があるが、多くの人がその考えを採っていない(と思われる)のは、そこになんとも抜きがたい違和感があるからだ。

そもそも、自分が存在していなければ世界は存在しないという考え方に則れば、自分が生まれる前は世界が存在しなかったことになる。自分が生まれるタイミングに合わせて世界がバタバタと急ごしらえで立ち上がったというのだろうか。そんなバカな話はない。もしそうだとしたら、それはそれで面白いけれど。

どんなに一人の人間が突拍子もない空想をしようと、生身の人間は常に歴史存在でしかありえない。過去の因果を背負って生まれ、周りをとりまく文化の影響の影響を受けて育ち、次世代にそれを継承して世を去っていき、自分がいなくなった後も文化が順繰りに受け継がれていくことを心のどこかで希求する。

自分の前には過去はなく、自分の後には未来はないという考え方に人々が違和感を覚えるのは、人間を人間たらしめている過去や未来に対する愛惜の念がそこに感じられないからだろう。これは思考の哲学的合理性とはまったく別の次元の、きわめてエモーショナルな問題である。

例えば五十年後の日本を考え今何をすべきかという議論を観じて「五十年後なんて自分はとうに死んでいるんだから知ったことか」という立場をとる人がいる。なるほど現実的な考え方ではあるが、自分が歴史的存在であることを放棄してなお豊かに生きられると盲信していることにおいて彼は非現実的である。

文化の継ぎ手になることにおいて、必ずしも人の親になる必要はないし、継ぎ手になろうと気負うこともない。その渡し方にも決まった儀礼があるわけではない。上の世代がただごく自然にふるまっているだけで、下の世代は確かな何かを感じるものだ。

現存する人の手によるもので、先世代からの歴史的経緯を持たないものなど何一つとしてない。衣食住にかかわることでも、飛び交う言葉でも、レジャーでも、娯楽でも、科学技術においても。

人間が生きる目的とは、多くの人がいうように「自らが幸福になること」ではなく、何かを継承し受け渡す役目を果たすことだと思う。個人の幸福はその人が確かな中継地点として機能することで副次的に与えられるもの、あるいは中継地点として機能するための熱源であって、それ自体が目的たりえない。