統合的視点について

日本社会を成長させるには女性の活用が不可欠だと持ち上げられる一方で少子化になるのは女性が子供が生まないからだと責められ、若いうちに子供を産まないと恐ろしいことになるぞと脅され、じゃあ子供を産もうとすると産婦人科医は不足しており、仕事をしながら子育てをしようとすると保育所がない。

さらには、産休や育休をとろうとすると疲弊した職場から言われなき圧力をかけられたりもする。この集中砲火をかわすのはもはや人間わざではない。

こういうちぐはぐな現象は「Aさんという女性は一人しかいないし一回の人生しか生きられない」という至極当たり前のことが、それぞれの政治的担当者が一つ一つの課題を切り離して考えているうちに、いつのまにか忘れ去られてしまうことから起きる。

ある医科大学のモットーに「病気を見ずに患者を診よ」というものがある。病気は抽象的な現象だが、患者は具体的な実在である。故障したパソコンを修理するようにトライ・アンド・エラーで人間を治療するわけにはいかない。

人間には事態を受け止める心があるし、痛みを感じる身体もあるので、その治療が総体としての身体や心に及ぼす作用について、常にバランスよく配慮することがぜったいに必要である。 この事情は社会的課題においても同様である。社会は多様性を包含しつつ均衡を志向するひとつの生命体のようなものだ。

複数の病気を抱えた一人の患者を治療するとき、その病気ごとに専門医が出てきて、めいめい勝手な治療をしたらどうなるだろう。たとえそれぞれの治療方針が正しくても、総体としての一個の人間はバランスを崩し、結果死へ至るかもしれない。

ひとりの人間が相手である以上、複数の問題に対処するにはどうしたって統合的な視点が要るのだ。社会問題や経済問題もきっと同じだ。

ただ、この高度に複雑化した社会において、その総合的視点を持つのは容易ではない。ひょっとすると、もう大会社の経営も、国家の運営も、一人の人間がトップに立つ時代では最早なくなっているのかもしれない。

以前のロシアでの双頭政治や、古代ローマ三頭政治のようなものを考えてみる必要があるのかもしれない。それにしたところで、情報が複雑すぎ、多すぎ、高度すぎて、もはや人間の手には負えない現状は変えようもない。トップ機能を分割することによってなおさら統合的視点が失われることもあり得る。