松本清張の「ひがみ根性」

 大岡昇平松本清張評によると、彼の作品には「ひがみ根性」が横溢しているとのことだ。確かに、ひがみ根性を文学的主題にするのはありだろうが、作者がひがみ根性をエンジンにして作品を書いている姿勢は、鋭敏な人には鼻につくものなのだろう。

けれどもおそらく、中年期をすぎて創作活動に入った清張に、あの膨大な作品群をものすることを可能にさせたのは、まさにその「ひがみ根性エンジン」なのではないか。だとすれば、かの批判は、清張の創作精神の根幹に関わる部分の否定であり、清張には到底受け入れられない性質のものだったことだろう。

「ひがみ根性」ほど、巨大な精神エネルギーは無いかもしれない。何か異常なエネルギーを発して物事に没入し、常人離れした成果を挙げる人物の心底には、大抵ひがみ根性が潜んでいる、という仮説も成り立ちうるのではないか。

「ひがみ根性」自体にはいいも悪いもない、ただ一個の巨大なエネルギーである。使い方によっては、善や利益にもなるし、悪や不利益にもなるという意味では、核エネルギーの様相にも似ている。

一人の人間が日々何に動かされているのか、何をエネルギーにして動いているのかは、その人自身にもなかなか掴みづらいものがある。金銭や賞賛や社会的地位といった表面上わかりやすいもの以外にも、歴史的・文化的背景や、心に負った傷や、鑑賞した作品の記憶など、捕捉しづらいものも山ほどある。

そもそも、自分がこんな場所でこんなことを書いているのは何故なのか、自分自身でもよくわかっていない。そういうことを自覚すれば、大岡昇平はもとより、誰も清張の創作動機を嗤うことなどできないだろう。