呪いの言葉

先日、ある人と話をしていて、内心すごく腹が立ったのだが、落ち着いて考えてみると、自分が腹を立てた理由をうまく説明できそうにないことに気がついた。そのいきさつを一から説明しても、おそらく誰にもわかってもらえないだろうという気がしたのだ。

それどころか、第三者が、われわれ二人の表面上のやりとりを観察する分には、おそらく腹を立てた自分の方がおのれの狭量を反省すべきだと判定することだろう。

知人の話には、何の刺激的な言辞も、べつだん礼を失するような言葉づかいもなかった。それにもかかわらず、自分が腹を立てたのは、言葉を発する彼の精神の中に、明確な悪意を感じたからだ。

悪意とは辞書によると「相手のよくない結果を望む、心の中に生じる意思」のことだという。つまりこれは「呪い」である。面と向かって呪詛の言葉を投げつけられて、自分は平然としてはいられないし、おそらく、たいていの人も同じだと思う。

「好意」はなかなか伝わらないが、「悪意」はすぐに伝わる。人間が呪詛の言葉に敏感なのは、その言葉がきわめて巨大な力を持ち、人の心を揺さぶり、弱らせ、荒廃させる作用があることを知っていて、その侵入を水際でなんとか食い止めようと意思するからだろう。

自分が腹を立てたのは、悪意を感じたのみではない。「このぐらいの微妙な言い方をすれば、悪意があることは気づかれないだろう」とこちらの言語的感受性を見くびった様な態度が透けてみえたことにも由る。

悪意はテキストの内容そのものより、しゃべる時の口臭のように、書くときのインクの滲みのように、発言者の知らぬ間に、言外に行間に顔を出してくるものだ。

孔子箴言「人、いずくんぞ隠さんや」を持ち出すまでもなく、「どんなに上手に隠れても」人間の本性や本心はいつだって丸出しなのである。そして、誰もがその自覚もなしに日々うかうかと生きている。