機械と人間

「機械にできることは機械に任せ、人間は人間にしかできないことをしよう」という議論がある。

では、「人間にしかできないこと」ってなんだろう。せんじつめるところ、とっても陳腐な話だが「気持ちをこめる」ことしかないような気がする。

「機械でもできるのだが、そこをあえて人間がすることに意味がある」という理路もあると思う。そうでなければ、いずれ機械が人間を超える将棋をなりわいにする人は、この世に存在する意味がなくなるだろう。

電卓が一般化したあとでもソロバンが滅びず、小学校では相変わらず九九を教えているのは、機械でもできるからといって何でも機械に頼ることの行く末に、人間がどこか不吉なものを感じているからではなかろうか。

コンピュータには創造的な行為はできないというのは人間の可憐な信仰であり俗説に過ぎない。いずれコンピューターは、人間を感動させる小説や交響曲を書くだろうし、美しい絵画も描くだろうし、的確な経営判断もするだろうし、精緻きわまりない判決も下すようになるだろう。

けれどもコンピュータが創造的なのは見かけだけだ。コンピュータが創造的に見えるのは、創造的な人間が作り上げたコンテンツをデータベースにして、それを適宜検索してアウトプットしているからに過ぎない。

人間の創造的行為は経験や記憶の蓄積と習熟によってなされるが、コンピュータのそれはデータの蓄積と検索によってなされる。アウトプットの見かけはいよいよ似たようなものになっていくだろうが、そのプロセスは未来永劫異質であり続ける。

将棋ソフトの中には過去の名人が残した膨大な量の棋譜が組み込まれ、実戦に臨んで似たような局面で名人たちが下した判断とそれが導いた結果を瞬時に調べ上げ、最良と思われる一手を抽出している。

たとえて言えば、棋士は、コンピュータの姿をかりた過去の名人たちの亡霊に寄ってたかってなぶられているようなものであり、ある意味、勝てる方が不思議なくらいなのだ。つまり、本当に「将棋が強い」のはコンピュータでもいわんやソフトの開発者でもない。過去の名人たちなのである。

「小説を書くコンピュータ」も、きっと「将棋を指すコンピュータ」と同じ仕組みでつくられることだろう。だから、将来、コンピュータが感動的な小説を書こうとも、自分はそれをコンピュータが「創造した」ものとは見なさない。コンピュータは人間の英知を結晶させる装置に過ぎないからだ。