敬意と恐怖

 敬意を払うという行為は、相手の「力」を認めることなので、自分にそれと対峙するだけの「力」があるという確信がない人は、他者に敬意を払うことはできない。つまり他者に敬意を払わない人は、多くの場合、自分の「力」に確信がない人である。

他者から敬意を込めて遇されたいと思うなら、それ相応の社会的実力を蓄えることよりも、「この人にはいくら敬意を込めて対応しても、それに乗じて専横なふるまいをされるおそれはない」という信用を醸成する方が、よほど本質的であり、重要だ。

社会的実力者や権力者に対する「敬意」の本質は、うわべだけの儀礼だったり、政治的・経済的な打算だったり、自己保存を冒される危機に発する動物的な恐れだったりすることが多い。これらは本当の意味での敬意ではない。

とはいえ、現実社会においては、「恐怖」と「敬意」の境目はあいまいで、両者はない交ぜになっていることも多い。この両者は「ストック(不易)」と「フロー(流行)」の概念のように、まったく違うようでも、じつは似たようなものでもある。

国家の独裁者を観ればわかるが、彼らは周囲からの「恐れ」を獲得した後、必ず「敬意」を希求するようになる。「お前たち、おれを恐れてばかりいないで、もっと敬ってくれないか。それも心から」というわけであるが、お気の毒ながら、「恐れ」は強要できても、「敬意」は強要することはできない。

「恐怖」と「敬意」がない交ぜになった感情を「畏れ」と表現することもある。ようするにこの両者は、「無視することができない大きな存在に対峙したときの感情」という意味あいでは、共通するものがあるのだろう

しかし、他者に「恐怖」を与えるのと、他者から「敬意」を得られるのでは、人間の行く末は大きく違ってくる。前者には孤独と寂寥が待ち受けており、後者には友好と厚情が与えられる。

そう考えると、(おそらく)他者に恐怖も与えていないし、敬意も得られていない、つまり誰からも「畏れ」られていない自分のような人間は、行く末どういうことになるのだろうか。