何が目的のオリンピックだったのか

 たとえ待ちに待ったお花見の予定があってもその日に台風が直撃することが確実になったら、早々に中止を決めて準備をすべて止め、予約類をすべてキャンセルするのが損害を極小化するための理性的な対応だと思うが・・。

すでに中国と韓国の選手は日本国内に入ることすらできないし、アメリカが日本に選手を派遣するとは思えないし、火の消えたようになっているヨーロッパもオリンピックどころではないだろうに、どういう成算があって「無事開催」に持ち込めると踏んでいるのだろう。

もし開催に持ち込んだとしても、参加しているのは日本選手の他は、経験を積みに来た命知らずの若手か、半ば観光目的の三流どころばかりで、会場はまるで北朝鮮で行われる国際会議のような異様な雰囲気が漂うようになるだろう。これが商業的に魅力のあるイベントになるとは到底思えない。

中止が内外で難事なっているのは、言うまでもなくそこに商業的利権がからんでいるからだが、逆に言えばロサンゼルス大会から本格的になったプロ化・商業化の波が来ず、起源通りの「アマチュアの祭典」が継続していたら、こうまで中止は難しくならなかっただろう。

「あくまで開催」に拘るのも一つの立場あるいは信条(心情)としてあっていいが、「開催」だけが目的化して、どういう中身のオリンピックになるのか、またはオリンピック開催を手段にして目指していたことが二の次にされるような空気になると、常識の時空が歪み、話がおかしくなってくる。

もともと、日本はオリンピックを開催することで何を目指していたのか、「強行開催」によってもそれは実現できるのか、そして、強行開催するメリットと中止にするデメリットを比較衡量して、どちらが日本にとって「ややマシ」だといえるのか。

これを判断できる知性も、それをする立場の人も規定できず(少なくとも今の内閣総理大臣の知性と精神はその任にたえない)、ひたすら成り行きにまかせて、レミング集団自殺よろしく破滅するしかないのだろうか。