主従関係と蜜月関係

人間の心の中には、「絶対に人に譲ることができない核心」があり、その周りを「人に譲ることができる緩衝材」が取り巻いている。ある意味、野球の硬式ボールのような構造になっている。

人と人が接近していく初期段階は、その緩衝材地帯での触れ合いでおさまるが、だんだん関係性が深まり、「譲れない核心同士」がどんどん近づいて、ついに接触し合うようになると、そこで激しい摩擦が起きる。

この激しい摩擦が「快感」になれば、さらにその関係の深化をお互いが求めるようになりさらに接近が進むが、逆に「不快」になれば途端に反発しあって他人以上に距離をとるようになる。

傍目に「親友」だったり、「オシドリ夫婦」だったり、「アツアツカップル」だったり、「友達親子」だったりした二人に、いつの間にか一気に距離ができてしまう現象は、この核心レベルでの触れ合いが「不快」と双方に感受されたことに拠る。

この事情は国と国との関係性にも当てはまる。ただ注意を要するのは、例えばアメリカと日本のように、たんなる「主従関係」があたかも「蜜月関係」のように迂闊な目には映りやすいことだ。

人間関係においても、いじめる側といじめられる側が、外観上、仲良しのように見えることがあるのは、いじめられる方の「絶対に譲れない核心」がいじめる側に乗っ取られていることから生じる。

自分の核心が取り去られ、代わりに他者の核心がはめ込まれる。それをいつの間にか受け入れ平然としている。一つの人格において、こんな悲惨なことはない。 

ちなみに、荘子の言葉「君子の交わりは、淡きこと水のごとく、小人の交わりは甘きこと醴の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ」は、人間の交際は「緩衝材」の範囲でとどめるべきだ、という知恵を述べていると解釈してもいいと思う。一方、小人は他人との「濃い交際」を求めるあまり、それが裏目に出て断絶することなりがちだと述べている。 

こういう「君子の交際」を、「水くさい」とか「さびしい」とか評する人は、個々人が内面に秘めている「譲れない核心」がどんなに厄介で、どんなに恐ろしいポテンシャルを秘めているかについて、あまりよく考えたことがない、あるいはちゃんと実感したことがない人だと思うし、

そうでなければ、「核心」をぴったり共有できるような歴史的背景がある共同体の中で生まれ、育まれ、そこで生涯を終えることができるような、幸福な人たちであろう。