罪と罰

深夜の駅のホームで、中年男性(以下オヤジ)が他人が吐いたゲロに滑って転ぶのを目撃する。転んだオヤジは腰をしたたかに打ちつけ、やおら起き上がると、背広の裾とズボンと黒カバンはゲロまみれになっていた。なお、ゲロの海に足を踏み入れるまでオヤジは歩きながらスマホをいじっていた。周知のとおり「歩きスマホ」は一種の不道徳行為とみなされているが、さて、その「罪」に比較して半身がゲロまみれになるという「罰」は量刑的に釣り合うのだろうか。個人的には、「釣り合わない」と思う。きょうび、歩きながらスマホや携帯電話をいじる行為は誰でもしている(自分もしていないとは言わない)が、だからといって誰もがゲロまみれになってしかるべきだとは思ない。もし自分がオヤジ同様の条件下でこの「罰」を受けたとしたら、ゲロを吐いたどこの誰だか知らない人間と、この過酷な運命に導いた天の配剤を激しく恨みこそすれ、自分の方にそうなっても仕方がないだけの罪が存するとは、ちっとも思わないだろう。だからこのオヤジも、自宅に帰ってゲロまみれの背広をポリ袋にぶちんでニオイが漏れないように入念に口を縛り、シャワーを浴びて汗とゲロを洗い流し、ビールを飲みながら夕食を食べたら、数時間前にゲロまみれになったことなどきれいさっぱり忘れぐっすり眠るだろう。そして、明日になれば、仕事帰りの駅のホームでまた歩きながらスマホをいじるだろう。ただし、こんどは地面にゲロが撒かれていないか慎重に目配りしながら。しかし、せっかくこのような稀有な体験をしながら(駅のホームでゲロで滑ってゲロまみれになる経験があるのは世界で100人ぐらいがせいぜいだろう)、学んだこと言えば「スマホをいじりながら歩くときには地面のゲロに気をつける」だけではやや淋しい気がする。個別的事態から普遍的教訓を汲み取り得るのが知性の一つの強味であるとすれば、個別的事態から個別的教訓しか学べない脳みそはポンコツといわずなんであろうか。しかし、我が身を振り返っても得心するが、この度し難いポンコツぶりがオヤジのオヤジたるゆえんなのである。なんとなれば、あらゆる個人的な苦難苦境は、それが滋味豊かな普遍的教訓に転換し得る若いうちに済ませておくべきで、オヤジの身空で体験する受難は、なんらの教訓も残さずにあっさりポリ袋に詰め込まれ燃えるゴミの日に出されるか、逆に、深手として残りいずれ我が身を滅ぼすかの、どちらか一つになるような気がする。