伝えない文章

 機能的(論理的と言いかえてもいい)な文章と、文学的(芸術的と言いかえてもいい)な文章を区別する考え方があるが、その場合、文芸における「機能美」というものはどこに存在することになるのだろうか。もしくは、文芸においては機能美(たとえば、スッと論旨が読む人に伝わり、かつ芸術性のある文章)は存在しないのだろうか。

もちろんそんなことはない。それどころか、文章の価値は多くは「機能美」の観点から評価されるべきであり、そもそも、論旨明晰だが文学的にイマイチな文章とか、支離滅裂だた文学的香気が高い文章とかの方が探すのは難しいだろう。

人間の頭の中は、通常支離滅裂な妄想で充満しているわけだが、それを表出し社会化する手段として言語がある。これが「基本」だ。言語には、「状況の描写」と「欲求のアピール」という二つの目的があるが、その目的を果たすためには一定の論理性が要る。それがなくては他者に「伝わらない」し、伝わらない文章など、絵に描いた餅以下である。

・・・という世間的常識を踏まえて、考えをもう一歩進めてみる。「文章は伝わらなくてもいいのだ」という考え方について、である。

言っている意味がわからない、あるいは、描写している状況はわかるがそこに込めた含意がつかめない、という言葉にまれに遭遇する。たんに、「文章がへたくそ」では片づけられないたたずまいを持ち、端倪すべからざる風韻を備えながら、「自分にはここで書かれている言葉の意味が分からない」そういう文章である。

そういったたぐいの文章は、さらに二種類にわかれる。読者に理解できるレベルまで成長することを「求めている」文章と、そもそも読者に理解されることなど「求めていない」文章である。

後者の代表的な存在が、詩である。「わからない」という隙間を読み手がめいめいの妄想で穴埋めすることを想定した言葉群である。

詩人がつくる文章(つまり詩の事だが)はわざと意味がよくとおらない隙間だらけの言葉を並べて、読者が妄想で補完することを期待している。そうなると詩人がその作品に込めた含意や背景にある個人的な経験は、永遠に謎のままになる。この謎が詩の生命を永遠にする。

「分かられてしまった詩」は、食べられてしまったコンビニ弁当と同じだ。食べ終わったカラの箱が捨てられるように、分かられてしまった詩集は読み捨てられる、あるいは、本棚に死蔵される。あるいはブックオフに売り飛ばされる。

たとえば草野正宗という詩人がいる。スピッツというバンドの曲をほとんど独りで書いている人だが、自分の友人は、草野の言葉は高校時代の感情や感覚を思い出させるものがあり聞いていて苦しい、と言ったことがある。歌詞には高校生活を具体的に描写した言葉など一片もないのにもかかわらず。

詩は、どうとでも受け取れる、思わせぶりな書き方をするべきで、具体的なことは書いてはならない、・・・ということが言いたいのではない。具体的な描写や論理的な説明によって、詩の息の根が止まることがある、ということだ。

このあたりの機微に無頓着な人を、詩人と呼ぶのは難しいと思う。