はじめに道具ありき

学生運動の時代にもし『落としどころ』という言葉があったら、運動はもっと早く沈静化していたのではないか」という意味の言葉を最近読んだ。

つまり「落としどころ」という言葉がなかったから「落としどころ」が見つからず、結果、対立する陣営どうし相手を完膚なきまでやりこめるしか選択肢が無かったということなのだが、これはいかにもありそうな話だ。

ある行動があって、それを表現したり描写する言葉を探す、というのが分かりやすいステップだが、先ず言葉がありその影響が行動に顕れるという方が、実は自然ななりゆきなのだ。

たとえば、絵画においては、画家の頭の中にまず作品のアイデアがあり、それを絵の具やパレットといった道具を使って顕在化させるのだと思われがちだが、芸術家の制作実態はおそらく全く逆で、道具の持つ多彩な機能や厄介な制約からアイデアを着想するケースがじつは多い。

この事情は、言葉を道具として美を構成する文学においても同じである。(なお、ここで言う「美」とは、あるべきものがあるべき場所にきちんとおさまっているさまぐらいの意味)

印象派の画家エドガー・ドガは詩を書くのをたのしみにしていたが、ある日傍らにいたマラルメという詩人に向かって「どうも詩人の仕事というものは難しい。アイデアはいくらでもわくのだが、なかなかモノにならない」と嘆いた。マラルメはこれにこたえて「詩はアイデアで書くのではない。言葉で書くのだ」と言ったという。

歌人河野裕子にも「テーマを先行させてはあきません。歌は意味からつくるのではなく、言葉からつくるのです」という言葉がある。

すぐれた詩人ほど、一つ一つの言葉の長い歴史を背負った威力に敏感で、その威力を存分に活かすためには、小賢しいアイデアの先走りは足かせにしかならないことを、深く理解しているものだ。

「でもやはりアイデアが先ずなくちゃ、何も始まらないのでは?」となかなか納得できない向きには(僭越ながら)こう答えたい。

「道具」の中にアイデアがある、あるいは「道具」と「アイデア」は不可分一体の存在なのだと。「アイデア」という剥き身の抽象概念は、人間の空想の産物であり、ほんとうは実在しないのかもしれないのだと。