切符

 母方の実家が栃木県の小山市にあり、自分たち兄弟は、小学生の頃、夏休みのたびにそこへ泊まりがけで遊びにいっていた。
 ある年の夏休み、つきそいで来ていた母が一足さきに横浜の金沢文庫にある自宅へ帰り、その数日のちに、三歳違いの兄と自分は、子どもたちだけで帰ることになった。
 自分は小学校の三・四年生、兄は五・六年生の頃だったと思う。小山駅まで祖母(母の母)が二人を見送りに来てくれたのだが、われわれ兄弟がちゃんと横浜までたどり着けるのか心配になってきたのだろう、やおら駅員に
小山駅から金沢文庫駅までの切符をつくってくれ」
と頼みだした。乗る駅から降りる駅までの直通切符があれば、せめて乗り換えのたびの切符購入の負担を減らせることができる、と踏んだのだろう。まさに、絵に描いたような「老婆心」である。
 当時も今もそんな切符は存在しない。当然駅員に、そんな切符はつくれない、と断られるのだが、祖母はかんたんには引き下がらなかった。
 そのときの祖母の粘り強い交渉の様子は、今でもよく覚えている。当時は「そんなこと無理に決まってるよ、おばあちゃん」と、けっこう冷ややかにながめていたのだが。
 祖母はとうとう駅長まで引っ張り出したあげく、「直通切符」を作らせてしまった。その切符は、「(国鉄の)小山駅から(京浜急行の)金沢文庫駅までの切符である」ことが手書で明記され、なにかの捺印がなされた、粗末な紙切れだった。
 兄と自分はそれを手にして改札を通った。上野駅に向かう東北本線の車内で、兄は、こんな切符がみちみち通用するわけがないから、途中で捨てて、ちゃんとした切符を買いなおそう、といった。自分も、そういえばこんなヘンテコな切符は見たことがない、きっと駅員さんに怒られる、と思い兄の意見にしたがうことにした。
 自分たちは上野駅の改札を出てからその切符を捨て、兄はこともなげに切符を買いなおして順調にのりかえをクリアーし、無事二人は金沢文庫にたどりついた。

 今にして思えば、いやしくも鉄道の駅長が通用しない切符を子どもに渡すような無責任なことをするわけがない。かの駅長は、ひょっとすると、乗り換え駅ごとに連絡を入れ、事情を説明し、こういう切符を持った兄弟が来るから通してくれ、とまで話をつけていたかもしれない。いずれにせよ、あの手作りの切符は立派に通用したに違いなかったのだ。
 この切符を捨てた話は、子ども心にもなんだか罪悪感があり、長い間、兄も自分も口にすることはなかったが、祖母が亡くなったのち、二十代も半ばを過ぎてから、自分は母にこの話を打ち明けた。母は、自分の母親の「老婆心」をないがしろにしたわれわれ兄弟の浅知恵をなじったが、その叱責は途中から涙声になった。スイカパスモなど影もかたちもなかった、三十年以上前の話である。