ファーストタッチ

高畑勲が自作「かぐや姫の物語」について、「下書きの鉛筆の線の勢いが、ペンでなぞると消えてしまう。自分はこの勢いを作品の中になんとか生かしたいと思ってきた」という意味のことを語っているのを視たことがある。

確かに、自分が予告編で視た「かぐや姫」には、言わば「ファーストタッチ」のみずみずしさが躍動している。真っ白な紙に、息を詰めて、しかし大胆に、のびのびとひいた、線の生命感がビシビシと伝わってくる。

アニメーションに限らず、絵画ではほとんどの技法において下描きをするが、書道ではそれが古来、禁忌なのは、まさにこの「ファーストタッチの勢い」を生かさんがためであろう。

以前ある流行漫画家が、テレビで「ネームの時にひいた線を、ペン入れしても越えられない」という悩みを吐露しているのを聞いたことがある。なお「ネーム」というのは漫画を描くためのラフスケッチのことらしい。

フォルムをつかむために乱雑に走り描きした絵が、印刷原稿用にきっちり描き込まれた絵より優れているとしたらどうだろう。これは作者にとってはかなり深刻な事態ではなかろうか。

高畑勲が、その長く輝かしいキャリアの陰でつねに直面してきた問題意識が、まさにここにある。かれは自分を含めた世のアニメーション作品の線がすっかり死んでいる苦痛に長い間耐えてきた。

アニメーションにおいて、線はフォルムを均等の太さで区切る以上の役割は求められておらず、それ自体が「生きて」いる必要はなかったからだ。

高畑はその苦痛をとうとう克服することができなかったが、克服することができなかったからこそ、今回「人生の最高傑作」(高畑)をものすることが出来たともいえる。

長谷川等伯の国宝「松林図」は下絵だそうだ。これはおそらく、下絵が国宝になった唯一のケースではないか。

たぶん作者は、下絵を描いた段階でその豊饒な幽玄さにすっかり満足してしまい、これ以上描きこんでも作品の美的価値は一向に高まらないどころか、それを損なうであろうことが容易に予想できたので、さっさと切り上げたのだろう。

近現代で、この「下描きの勢い」を活かすことに意識的だった画家といえば、まずは青木繁が挙げられるだろう。

職人は機能を十全にするまで作業を止めることはできないが、芸術家には自分が好きな段階で作業を止める権利がある。この権利が、芸術家の持つもっとも大きな自由である。

厳密にいえば、「かぐや姫」は下絵でも下描きでもない。アニメーションという精緻なクリエーションにおいて、それは原理的に許されないことだ。そういう意味では、アニメーションは「職人」の業だが、そこに芸術家の自由を吹き込んだところに、今回の作品の画期性があったのではないかと思う。

文学(言葉の芸術)においても、初稿の勢いを大切にする作家と、推敲によって練り上げていく作家の二通りがある。二通りがあるといってもほとんどの作家は後者で、稀有な前者の例として三浦綾子がいるぐらいなのだが、初めに口から、あるいはペン先から、あるいは指先からでてきた言葉が一番出来が良い、という作家はほとんど天才だといえるのかもしれない。

これは同じ芸術でも、造形芸術と言語芸術の大きな違いかもしれないが、ただ、白川静にこんな言葉がある。

「文字は最初に出たものほど立派なんです。歴史が常に発展向上して高められてゆくものだと考えるならば、書の歴史はまさに逆です。一つの様式が生まれたときが、最高の表現だったということなんですね」

もちろん、「文字」と「文学」を単純に混同するわけにはいかないが、芸術の歴史も、生物の進化のように個体発生は系統発生を繰り返すものだと仮に考えてみると、文学も「最初に出たものほど立派」だという仮説が成り立つ余地が、わずかながらでも有るのかもしれない。(未完)