資産と負債

人間の持ち物には資産と負債の二種類がある。この二つは正反対の性格を持ちながら、容易にその判別がつかない奇妙な対称性を持つ。

一人っ子政策」を始めたころの中国は、その膨大な人口を「負債」ととらえ、なるべく少なくしようと躍起になっていたが、実はそれが「資産」でもあったということに最近やっと気づいたようだ。(遅いって)

贅肉といっしょに必要な筋骨を削るような過度のダイエットが身体を損なうように、資産と負債の取り違えも、国家や会社や家計に致命的なダメージを与える悪魔の罠だ。

自分の持っているものが、後生大事に抱えておくべきものか、早晩捨て去るべきものかの判別が容易ではないのは、大切なものほど「あって当たり前」を装い、有害無益なものほど「貴重なもの」という仮面をかぶっていることが、ままあるからだ。

自分が本当に大切にするべきものを天啓のように知っている人は幸運だ。その他の人は、資産と負債を取り違えて月日を重ねた挙句の果てに、見当違いに見当違いを重ねた悔悟の涙にまみれながら、この世を去っていくのかもしれない。

「その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に蝨あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり」との兼好の言葉は、もちろん最後の「君子」と「僧」のところに核心がある。

君子にとっての仁義、僧にとって法は、普通に考えればその者をその者たらしめている言わば「資産」であるが、それが身を損なう「負債」にもなりうるところに端倪すべからざる人間の性(さが)の微妙さがある。

だからといって、「仁義」や「法」が一方的に負債なのかというと、やはりそうではなかろう。一つのモノやコトには、資産的側面と負債的側面が「あざなえる縄」のように入り組んで溶け込んでいる、と考えたほうが実態に合っている。それはローンで買った住宅が、資産と負債の両面を持っていることと同様である。

われわれは、とにかく負債を減らし、資産を増やそうとするが、負債の姿をとらない資産はないし、資産の姿をとらない負債もないのだろう。それは順逆、陰陽、善悪といった二項対立の図式でしか、社会や歴史や人生を説明できない事情と通底しているのかもしれない。