鉄火場でものをいう「教養」

 いま、多くの政治家たちがこんなに醜いふるまいを満天下にさらしているのは、代議士が生活の糧や社会的存在感を得るための「職業」になっているところに一因がある。かつて政治家は資産家が自己の理想のために立ちあがり、すっからかんになって終わるような「名誉職」だった時代があり、だからこそいくばくかの尊敬を受けていたのだ。

自分にも妻子がいるから無職になるわけにはいかない、そういう動機で混乱した状況をなんとしてでも生き延びようと足掻きまくるのは、サラリーマンや公務員ではいたしかたないにせよ、国運を左右する政治の場でこぞってそれをやられると、それこそ「国難」を招くことになる。

本来、政治家にとって政治信条や政策は「商売道具」のはずだ。身に着けたスキルを放棄するビジネスマンや、売り買いのネットワークを断ち切る商売人や、使い込んだ道具を放棄する職人はいないように、自らが拠って立つ政治信条や政策を脱ぎ捨てた政治家もありえないはずだ。それをすることは、そもそもその人が政治家でなくなることを意味するし、もしそれによって束の間「生き延びた」としても、そのくびきは生涯にわたってその人を締めつけ、苦しめ、結局はひどく悔やむ仕儀になるだろう。

世に「背に腹は代えられない」や「花より団子」という言葉があるが、いっときの「腹」を満たしたところで、「背」や「花」を失った政治家には結局未来はない。しかし政局の熱狂が吹き荒れている状況では、とにかく「今」をしのぐことが最優先になり、安売りされた「未来」が売り買いされる。

彼らは、ハシタ金で春をひさいだり、アダルトビデオに出演したりして、貴重な青春の輝きを浪費し、あたら未来を台無しにする一部の若い女性たちを嗤えない。

迂遠な話になるが、こういう人生の鉄火場でものをいうのがその人に「教養」があるかどうかだと思う。たとえば、福沢諭吉に「痩せ我慢の説」というものがあることを知っているのと知らないのとでは、身の振り方が劇的に違ってくる可能性がある。

親の基盤を継ぐしかない社会的無能者や、官僚の出世レースの脱落者や、芸能界での敗残者の吹き溜まりのようになった日本の政界には希望も未来も感じさせることはできない。しかし、政治が人間社会必須の調停システムである以上、そんなやに下がった態度では済まない状況が、何とも苦痛である。