皇居・上野行(2017年10月8日)

 皇居前広場で、数年ぶりに風景画を描く。使用したのはクレヨンのような太い鉛筆で、細かいところまで描き込めない分、大づかみで対象を捉えることができる。

絵を描く作業はとても愉しい。モチーフを観察し、手を動かしていると、頭によどんでいた血液が、溶解して体じゅうに循環していくような心地がする。記号が血肉化されていく、形而上が形而下に降りてくる。

日頃の生活や仕事において、いかに自分が不出来な頭脳にばかりに頼って過ごしているかを思い知ることができるのは、手を動かしているときだ。同じ芸術分野でも、言葉をつかうもの(文学)には困難だが、ビジュアルをつかうもの(美術や映像)や音を使うもの(音楽)には、容易くできることがある。

たとえどんなに狭い紙面でも、自分が如何ようにも取り仕切ることができる世界が確実に目の前にあるという実感が、人間の心をどこかで深く満足させるのだろう。

この種の「宰領感」は、現実の人間関係や社会や組織の中では、どんな強大な権力を握ったとしても得られないニュアンスのものだ。神経症の治療法にある「絵画療法」とか「箱庭療法」というものは、この「場の宰領感」の充足による治癒効果をねらっているのではあるまいか。

秋晴れの皇居前の芝生広場は、家族連れやカップルでにぎわっていた。複数の子供がいる家族連れも多く、それらを見ているうちに自分は、場違いにも、つい先日に起きた、32歳の夫が、33歳の妻と五人の幼い子供を殺害した事件を連想した。

幸福な人生を一瞬にして修羅場に切り替えるのは、一見平穏に観える日常生活で少しずつ蓄積されていった怨嗟の念だ。些細な、夫婦お互いの言動が、ひとつひとつ積み重なって、ついには修復しきれない亀裂となって現出する。

日々人生で遭遇する出来事の中で、今、自分はなにを感じているのか、を立ち止まって考えてみることが必要だ。今自分を支配しているこの激しい感情は、内面の工夫で我慢すべきなのか、外からの作用で解消するべきなのか、それを判断するのはとても難しい。

しかし、その途方もない難しさから、逃げてはならない宿命のもとに、我々は生きてる。その自覚があろうともなかろうとも。



上野に移動し、西洋美術館の庭に常設されているブロンズ彫刻群を見る。このエリアにある彫刻は、ロダンの作品が「地獄門」「カレー市民」「考える人」の三つ、ブールデルの作品が「弓を引くヘラクレス」のひとつの計四つ、この世界彫刻の極北に位置する作品群を観るためだけに上野公園に来る価値は十分ある。

ブールデルも偉い彫刻家なのだろうが、ロダンの作品に比べると子供の粘土遊びのように見える。(個人の感想です)ブールデルには、具象性と抽象性のどちらをねらっているのかが、判じかねるところがある。

こういう中途半端さを見せつけられると、「要するに下手なだけなんじゃないか」という考えに短絡するが、美術観賞は自分勝手に見て自分勝手に批評するところに最大の愉しみがあると自分は思いこんでいるので、この短絡を自主的に引き延ばそうとも思わない。

ロダンの作品には、ロダンという人間がいかに人間の肉体に深甚な関心を抱き続けたかがはっきり顕れている。文字通り、頭のてっぺんから、手の指先、足のつま先まで、彼の鋭い観察の目から逃れ得ている部位は全く無い。



全身に力を入れて座る人


誤解している人が多いかもしれないが、ロダンの天才はこの密度の高い観察眼にあり、石膏をこねる手つきや、鑿を打つ強弱にあるわけではない。人間の才能の震源はインプットの能力にある。アウトプットはインプット能力の有無や多寡の証明素材にすぎない。

アウトプットの方法は学校で教えることができるが、インプットする能力は教えることができない。人間は人間からたくさんのことを学んでいるように見えながら、実はあまり学んでいないものなのである。



場所を移し、不忍の池を描く。自分が座っていた場所の近くに男性の外国人観光客が二人座ってきて、さかんにしゃべりながら食事をし始めた。ソースの臭いが鼻につく。焼きそばだろうか、お好み焼きだろうか。自分が食べているのならば食欲をそそるにおいだが、他人が食べているものから出るときは「臭気」にすぎない。

以前どこかで、「他人の食べ残したものに食欲を感じないのは、感染症を防ぐ本能からだ」というような説(というか理屈づけ)を見聞きしたことがある。一応論理は通っているので(後出しジャンケンで負けることがおかしいように、後づけの理屈で論理が通っていない方がおかしいが)、これに反駁する気もないが、自分はこのあたりについて、以前から、ちょっと違う考えを持っている。

おしなべて、他人が食べ残したものや、他人が食べている時に発するにおいに拒否感が生じる理由は、人間は他人に、基本的に「無人格性」を求めているからではないだろうか。

無人格性」は自分の造語なので、まずその意味するところを述べると、人間は自分だけが喜怒哀楽の感情を持ち、感覚器による情報受容と反応ができる真正の人間で、そのほかの他人は「人間以外の何かべつもの」と考えたがる傾向、あるいは嗜好があるのではないだろうか。

モノを食べたいという欲望の開陳、つまり「食欲の発露」というのは人間を人間たらしめているもっとも根源的な「有人格性」の発露であって、これをあからさまに見せつけることは、他人へあくまで「無人格性」を切望している個人の期待を裏切る行為であり、だからこそ、それを嫌悪したり拒否したりするのではないだろうか。

有り体に言えば、人間は他人が大口をあけてモノを食らっている姿なんぞ見たくないし、その痕跡、つまり「食べ残し」を見るのさえもイヤなのである。極端に言えば、「モノを食べる人間」なんぞは、地球上で自分一人いればたくさんだ、ぐらいに思っているのである。

これはごく素朴(と自分で形容するのもなんだが)な他人の飲食に対する自分の違和感から発する考えだが、それをひとたび言葉で説明しようとすると、こんな冗長な文章になってしまう。その上、まだこれでも、とうてい論理が尽くされたとも言えない。この文章を読んで、この自分の「他社における無人格性切望説」に共感してもらえる可能性など、ほぼ皆無だと思う。(ここでスネてどうする)




上野山といえば、彰義隊と官軍による「上野戦争」の舞台でもある。上野戦争を白刃の集団決闘だと思っている向きもあるだろうが、その実は、「アームストロング砲」や「四斤山砲」という、当時最新鋭の舶来の「大量破壊兵器」で決着がついている。



上野戦争の図。アームストロング砲の弾丸はこういった乱戦のさ中に落ちた?


「大砲」の圧倒的な破壊力で雌雄が分かれる構図は、日露戦争における二百三高地攻略や、はるか下って、広島・長崎の原爆投下による日本の敗戦にまで見られる、近代戦争における決着の方程式のひとつになっている観がある。

しかし、このたぐいの大量破壊兵器による焦土攻撃は、甚大すぎる破壊力を擁する核兵器の出現によって、逆に歯止めがかかるようになり、近代戦争はこれを封印するという一種の紳士協定の上で戦う建前になっている。

アームストロング砲は、上野山から12キロメートル離れた今の文京区本郷に設置され、不忍の池上空を通過し、彰義隊陣営に数発着弾し、隊は大混乱、そこを契機に、官軍は雪崩を打って攻勢に出て、勝負は一気に決した、といわれているが、さて、当時の砲撃技術で12キロメートル離れた小山にいた数百人の一陣営を狙い撃ちするなど、果たして可能だったのだろうか。

アームストロング砲に驚異的な命中精度があり、仮に百発百中だったとしても、一発目で彰義隊は散り散りになったはずだし、少なくとも、場所の移動ぐらいはしただろう。そうなると二発目以降を続けて命中させるのは、さすがに至難の業だったに違いない。

これを踏まえて、素人仮説を述べることを許してもらえれば、アームストロング砲は、彰義隊と官軍もろともに、戦闘参加者をほぼ「平等」に降り注いだ、つまり、敵味方の区別なしに爆殺したのではなかろうか。

アメリカ軍サイドにも大量の放射線被害者を出したといわれる、湾岸戦争イラク戦争で使用された”準核兵器劣化ウラン弾の例を挙げるまでもなく、強力な兵器は、常に味方にも被害を及ぼす反作用が抜き難くあるものなのかもしれない。

また、官軍の総大将で、上野山砲撃を行った大村益次郎が後年暗殺されたのは、こういった敵味方を区別しない殲滅作戦を実行しうる、彼の現実主義の峻厳さ、ありていにいえば「冷酷さ」に一因があったのかもしれない。



彰義隊墓碑


山岡鉄舟が揮毫した「戦死之墓」

幕末維新時には、現代人からみれば「人間の能力を超えている」としか言いようがない不思議な力を備えた人物が続出したが、山岡鉄舟もその一人である。彼は春風館という道場を宰領する剣道家でもあった。彼は稽古に使用する竹刀をどんどんつめていき、ついには「刀など無用だ」として、「無刀流」を自称するようになった。

柄物の長さは一概に長ければ有利でもないし、短ければ不利というわけでもない。操う者の体力や身体条件、戦いの場の様相などから自ずと適性な長さというものがあるのだが、それにしても「短い」と「持たない」との間には、たんなる量の差ではなく、質的な発想の転換がある。

結論めいたことをいえば、無刀の思想とは、「刀を持たずに闘う」ことではなく、そもそも「刀が必要になるような状況に陥らない」ふるまいを、武士の平素の心得とする哲学である。

たとえば、世に「真剣白刃取り」という一種の曲芸があるが、白刃を持つ相手に向かって、素手で立ち会わなくてはならない状況に陥ることからして、すでに武道の達人ではない、そういうはっきりした思想を鉄舟は持っていたと思われる。

武道の達人とは死線を何度も潜り抜けた剣法の達人ではない。山岡鉄舟は、生涯人を斬ったことがなかった。ただ、当然ながら、山岡が凡百の単なる平和主義者ではない。

 山岡鉄舟の生涯の白眉は、東海道を下ってくる官軍本営に一騎で乗り込み、総大将の西郷隆盛と直談判し、江戸城無血開城の地ならしをした働きであろう。江戸城無血開城は、よく知られているとおり、勝海舟と西郷の会談によって決まるが、そこに至るレールを敷いたのが山岡鉄舟である。



山岡鉄舟。身長は190センチ近く、体重は100キロを超える。偉容である。


このとき、一介の幕臣にすぎなかった鉄舟が、飛ぶ鳥を落とす勢いの官軍総帥・西郷になぜ会うことができたのか、論理的な理由はなにもない。なぜ薩摩軍は、まるでモーゼの前で海が割れたように、西郷へのレッドカーペットを鉄舟の前に敷いたのか、後世この顛末を描写したものを読んでも、自分にはさっぱりわからない。

考えられるのは、そのとき鉄舟が全身に漲らせていた異様な気迫が、その風姿や発する言葉が、薩摩軍の兵士たちを圧倒したのだろう。今風に言えば、そのとき彼は、西郷以外の余人に有無をいわさぬ強烈な「オーラ」を放っていたのである。

おそらく、ここに「無刀流」の真髄がある。彼は一度も刀の柄に手をかけることなく、単身で官軍と対峙し、大西郷を説得し、江戸城無血開城への道を切り開いた。彼は半生を時代の激流に身を投じながら、誰も斬ることなく、誰からも斬られることもなく、病没するまでの人生を全うした。

新政権の首魁になった西郷隆盛は、山岡鉄舟を、十代なかばの明治天皇の教導係に推すが、そのときの西郷の脳裏にあったのは、東征の途上で出会った、鉄舟の面差しであり、そこに人間にとってもっとも本質的な、もっとも尊貴すべき何ものかを、感じとったのではないだろうか。

「飛ぶ鳥を落とす勢い」だった西郷も、「盛者必衰のことわり」から無縁ではいられない。



西郷像

西郷は、朝鮮半島への出兵の是非が争点になった権力闘争に破れ、新政府内で失脚し、下野することになる。教科書的には、西郷は、板垣退助とともにいわゆる「征韓」派だったと言われるが、西郷像の下に掲げられた看板文によると、「西郷は征韓論に反対し」とある。

いったい、真実はどちらだったのだろうか。

この看板文や、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」によると、西郷の「征韓論」は「遣韓論」というべきもので、朝鮮国に、丸腰の自分を遣わし、欧米列強に対抗するために日本と協力するように説得させて欲しい、という主張で、朝鮮半島に軍隊を派遣し軍事的に制圧するべきだという朝鮮半島征服論とは、似ても似つかないものだった、と説く。

注意すべきなのは、当時、西郷が新政府内でどの程度権力を握っていたか、である。世間から観た外貌通り、西郷が新政府の首魁であったのなら、「自分を遣わして欲しい」などと誰に要請する必要もないはずで、勝手に自分で判断して、どんどん行ってくればいいはずだ。(今の安倍氏の”地球儀を俯瞰する外交”のように)

西郷にそれができなかったということは、新政府内での権力闘争に敗れ、すでに孤立化し、本質的な政治行動は何もできない状態になっていたということではないか。

つまり「征韓論(あるいは遣韓論)」は、西郷が政府を去る方便として利用されたに過ぎない、自分にはそう思える。政治的に敗れた西郷が、軍事的にも破れるまでの道のりは、ほんの一歩だった。

天性の「政治家」であった西郷には、剣客だった鉄舟流の「無刀」の思想は、深遠に過ぎたのだろうか。