天草四郎の愛国心

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観世清和「羽衣」

 長崎のキリシタン天草四郎を頂いて原城に立て籠もり、幕府の包囲軍と戦っていたとき、埒が明かない幕府軍はオランダ軍に海からの砲撃を依頼した。

近代戦争は、終局における大量破壊兵器の使用で決着することが多い。彰義隊上野戦争におけるアームストロング砲、太平洋戦争における長崎・広島への原爆投下などが、これに当たるが、原城へのオランダ船による砲撃は、この走りかもしれない。

さて、この時に、天草四郎が包囲軍に向けてはなった矢文がある。

天草四郎は、遠方の海上から外国船がこちらに向けて砲撃しているのを認め、「我々はいま、一対一の雌雄を決する闘いをしているのに、外国の援けを借りるとは卑怯だろう。あなた方は日本人の名折れだ。恥を知れ」という趣旨の分をしたため、憤りを露わにした。

キリスト教という、民族や文化を超えた普遍の教えを奉じているはずの彼が、「日本人の矜持」のようなものを持ち出しているのは興味深いが、どういう思想的立場に置かれ、あるいは、思想的理論で頭を充満させていても、人生の切所においては、はからずも「自分は日本人だ」という最も心の深部にあるアイデンティティが露呈するものなのだろう。真の愛国心とは、このようなものだと思う。

時の政権というものは、時代を問わず、自らの意思を通すためには、自国民に向けて外国人に砲撃も頼むし、自国の美しい領海に汚れた土砂も投入するものなのだろう。当たり前のことだが、国を大切にすることと時の政権に忠誠を誓うことは違う。それらを混同した、あるいは意図的に一体化させたときに、どんな異常な集団心理と、どんな破滅的な事態に陥るかは、ほんの七十年前に証明済みだ。

「人間は歴史から学ばない」など脂下がっている場合ではもはやない。亡国への道はいつも「愛国」で敷きつめられている。国を滅ぼすのはいつの時代も「愛国者」を自称する者たちだ。この歴史の定石には、恐ろしいことに例外がない。