名刺交換と美術鑑賞

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オーギュスト・ルノアール

 仕事の会合で、大勢の出席者と片っ端から名刺交換することがある。そのうちの多くとは名刺交換をしただけの縁でそれっきりになるのだが、相手の人生はそれっきりではないし、当方にしてもおなじことだ。

自分は名刺だけをした人のことをいつまでも覚えていないし、相手にしても同じことだろう。(なんて拙いツラをした男だ、という記憶のされかたはするかもしれないが)勿論これは、人間と人間の相互理解の道へのまともな入り方ではない。

本来、人間が人間を識るには、じっくりと言葉を交わし、何回も顔合わせを重ねるしかないのだが、それをいっさい省略しているのだからお話にならない。しかし、ビジネスの慣習として、「初対面の人間とはとりあえず名刺交換をして、お互い見知った気になる」のがセレモニーだから、だれもかれもが、それにおとなしく従って疑わない。そうして、何の実感もない部署名と名前が刷られた小さな紙片だけが溜まっていくことになる。

虚礼と紙資源の無駄遣いもここに極まれり、なんと愚かなことか、と思うが、実際のところ、人間は、ビジネスの現場だけでなく、よそでも同じようなことばかりしているのである。

たとえば、美術の展覧会において入場者は「初対面」の膨大な量の作品と出会うが、たいていはほんの挨拶程度の一瞥をくれたあと、どんどん次の作品に目を移していくことになる。画面と説明プレートを交互に見て、なにやら分かったような気と、なんだかよくわからない気持ちを繰り返しながら。

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オーギュスト・ルノアール

 

ただ、これは致し方ない面もある。会場が混んでいてどうせまともには見られないし、作品数が多くて、そうでもしないと全て見おわるまえに日が暮れてしまうから。しかし、その一つ一つの作品には、それぞれに作者の深い思いと長大な時間が込められている。何年にも渡って手を加えられた作品であることも珍しくない。これは何十年の人生を刻んできた初対面の人との交際を、ほんの数秒の名刺交換で済ませてそれっきりになることと似ている。

おそらく、作品であれヒトであれ、個人の外物とのつきあいかたには三種類ある。一瞥をくれただけで通り過ぎていくケースと、一定期間はつき合うが潮時になったら別れるケースと、一生涯をかけてじっくりと向き合うケースである。

やっかいなのは、初対面のときは、自分にとってその対象物がその三つのうちのどれに当てはまるかが、およぞ見当がつかないことである。唯一、自分の子供は、「初対面」の時から生涯のつき合いになることが容易に予想されるが、これだって保証の限りではない。

いずれにせよ、相手はたまたま視野に入ってきた一介の物体ではなく、これまでの重厚な歴史を背負い、これからも背負い続けていく、唯一無二の存在であることは忘れない方がいいと思う。余談ながら、いつも思うのだが、美術展は今よりも作品数をぐっと減らして、その分値段を安くするのがいいと思う。その方が、一つ一つの作品との交流も濃密に、実りあるものになるだろうし、芸術作品との向き合い方として正当だと思う。商業的にそれでは成り立たないのかもしれないが。