宮崎駿の復帰

 2013年に引退宣言をした宮崎駿が復帰のために始動している様子を追ったテレビ番組(「終わらない人 宮崎駿」)を再放送で視た。

彼は復帰作品をコンピュータグラフィックス(CG)で作ろうとして、若手の技能者とチームを組んで試作を繰り返したが満足にいたらず、結果的には、従来どおりの「手描き」で進行することにした。番組はその顛末を追ったものである。

「復帰作品」には、色々な虫が自然の中でうごめいている様を描写するシーンがあり、CG技能者たちは、例えば毛虫が地面を這うシーンでの毛並みのゆらめきを、進む速度と受ける空気抵抗などを計算して再現する技法をとっていた。たしかにこれは生き物の動きに肉薄するひとつの有効な方法だろう。風景を二次元上で再現するには絵を描くよりも写真を撮った方が再現性が高い事情にも似ている。

ただ、人間が作る作品の価値は、現実を物理的あるいは数学的に再現する精度の高さとイコールかというと、残念ながらそう単純な話ではない。宮崎駿が希求しているのは、現実世界における生物動作の正確さではなく、それを視た時の人間の心の動きの表現である。のちに関係破綻に至るボタンの掛け違いは、すでにここから始まっている。

芸術家の仕事あるいは役割とは何か。いろいろな定義の仕方があるだろうが、ひとつには「自然や現象を観察し解釈しその見方を人々に提示すること」にある。そして提示する「見方」に、斬新なもの、本質を抉るもの、心躍るものなど、とにかく人間の知性を刺激し、感情を揺さぶる力があれば、その作品は世に広く永く受け容れられてゆくことになる。

「芸術は自然を模倣し、自然は芸術を模倣する」という言葉がある。後者の「自然は芸術を模倣する」という言葉は少々わかりにくいが、これはひらたくいうと「芸術家あるいは芸術作品は、人々に自然や現実の見方を教える」という意味である。

力のある芸術作品を観た後、人びとはそれまでとは違った感受性で、自分の身の周りの自然や社会を眺めるようになる。例えば、かつて高倉健任侠映画をみた男たちは、その気分を引きずって映画館を出たあと肩で風を切って歩いたようなもので、つまり「物の見方を教示する」こと、鑑賞した人の物の見方に影響を与えること、芸術作品の価値は究極的にはそこにある。その視座から眺めれば、ただ自然や外界を計量し再現するだけの作物には、観察記録のデータベース以外の価値はほぼ無いことがわかる。

念のために言い添えると、自分は「手描きは味があって素晴らしいが、CGは冷たくてダメだ」というようなことがいいたいのではない。そんな考え方は、今後CGの機能が高まり「手描きの味」も過不足なく再現できるようになったら退場する以外なく、ことの本質はそんなところにはない。

CGは本来、筆や絵の具と同じ単なる道具にすぎず、この「単なる道具にすぎない」という原則を手放さない限り、この極めて有能なアシスタントは人間と健全に共生する。

重要なのはCGを道具として使役することであり、CGに使役されることではない。昨今このたぐいのフレーズは聞き飽きた感もあるが、聞き飽きるほど聞かされるということはやはり重要な考え方だからである。

コンピュータには、従来の、絵筆や彫刻刀やバイオリンといったアナログ型の道具とは異次元の人体や人心への影響力がある。その違いを一つだけいうと、アナログ道具は常に作用への反作用として対称的に機能するが、コンピュータには、一度起動すれば人間の思惑や想定範囲を超えて動作が拡大する性質がある。つまり作用と反作用との間の非対称性が甚だしく、換言すれば「レバレッジ」が巨大なので、使用者に依存心が芽生えやすい宿命にある。

依存心と不安は常にセットで居る。人間は強い武器や、すぐれたツールを持てば持つほど心が弱くなる。それを失うことを恐れる心理も足並みそろえて昂進するからである。

宮崎駿の違和感は、CG技能者たちが、自分のポテンシャルを顕在化させる便利な道具としてCGを操っているのではなく、高いポテンシャルがあるCGに自分の個性を隷属させているありさまにある。つまりCGにスポイルされているのにその自覚がかけらもない惨めさだったのである。

もし宮崎駿自身がCGをオペレーションできれば、彼は技術の奴隷になっている若手CG技能者など及びもつかない、描写ツールとしてのCGの豊かなポテンシャルを引き出すだろう。しかし、老齢の彼にはもはやそれは叶わないから、現実問題として「手描き」に回帰する以外方途がない。

番組の中で、CG技能者たちは巨匠としての宮崎駿に敬意を示しつつ、「ジジイが何いってんだ」的な心性が露呈するのを隠しようもなかったが、宮崎駿が確かに掴んでいて、彼らがその欠片さえ掴んでいない、得体の知れない豊穣で強靱なものは広大で深甚である。

彼らがそれを掴むには、虚心になって巨匠がたどった道程を上っ面だけでも撫でることだろうが、彼らはそんなことをする気は毛頭ないに違いないし、CGの威力に精神が浸潤されないためには、それに関わる前に確固たる自己の世界観を構築しておくことが必要なのだが、彼らがそれをするにはすでに手遅れなのである。