敵に回る本能

 人間の体は簡単に病気やけがをする程度に弱く、人間の心は容易に悩み苦しむ程度に弱い。「強い」というのはいつかは過ぎ去るいっときの状態に過ぎず、生れてから死ぬまで強くあり続ける人間などいないし、ついでにいえば、弱くあり続ける人間も少ない。

「疾病利得」という言葉がある。これは病によって患者が得る利益のことだが、多くの心の病はこの利益を得るために自ら罹るのだ、という考え方がある。この視点は、人間の欲求を重層的見れば、本能的・動物的欲求においては当たっており後天的・社会的欲求においては外れている。

たとえば、スポーツ選手は「イップス」という状態に陥ることがある。ゴルフ選手がパッティングをするときに腕が震えたり、動かなくなったりする症状であって、その真因は、過去の度重なるミスパット時に味わった「痛い」記憶のフラッシュバックにある。

この症状はプロスポーツ選手にとって選手生命に関わるものであり、その事態に陥った選手は非常な苦しみ方をする。(たとえば女子ゴルフの宮里藍選手の引退はイップスに真因がある)

ただ、発症プロセスを辿ってみれば自明なように、この症状は本能的に「自ら欲している」ものである。つまり、パッティングの失敗による精神的ダメージを回避するにははじめからパッティングをしなければいいのであって、その深層欲求が行動として顕在化しているのが「腕が動かなくなる」という状態なのである。

換言すれば、選手は自分の腕を動かなくすることによって失敗による痛みを回避しているのであり、穿った見方をすれば、かれはうまい具合に痛みを味わわなくて済みおおせた、まごうことなき「利得者」なのである。

ただし、この(おそらく正当な)論理を「ああそうか、かれは確かにトクをしているな」と羨む人もおるまい。「利得者」と観ずるにはかれの苦しみは深く、症状によって高度な能力を台無しにし、社会的信用や生活の糧すら危うくしている状況を、一般的にも「利得」と称するには違和感があろう。

本能存在においては利得者と位置づけられても、社会的存在においてかれは巨大な損失を被っているのである。本能は、自らを力強く救うこともあるし、自らを情け容赦なく滅ぼすものでもある。人間は、自分らの本能を飼いならす方法を、めいめいが工夫して体得しなければならないのだろう。