人工知能がもたらす未来

 実力の上回る人工知能で練習して人間同士の試合に挑む棋士は、体力の上回る男と練習して女同士の戦いに挑むスポーツ選手と似ている。しかし、そういう訓練の仕方が可能な女子スポーツはおしなべて人気がないように、そんなことをしている将棋界や囲碁界もいずれ一般人からは顧みられなくなるだろう。

「自動車が現れたって人間同士の駆けっこへの興味は薄れなかったじゃないか」式の楽観論があるが、自動車が現れる前にすでに人間より足が速い動物が幾らでも存在していたのだから、自動車と人工知能を同列に論ずるのは間違いだ。人間が万物の霊長として君臨してきたゆえんの「知能」という分野で、人間を超えるモノが出現したことが画期なのだ。

どこかのなんとかアナリストが「人工知能の出現で奪われる職種」を並べ立てた記事を読んだことがある。センセーショナルな装いの恫喝的ニュアンスに満ちており、あまり良い趣味の記事ではなかったが、滑稽だったのが、当のアナリスト的な職種こそ、真っ先に人工知能に放逐される職種であることに論者自身気づいている気配がなかったことだ。少し考えれば、医師や法律関係や計量・分析といった従来「知的」と目されてきたものほど人工知能に駆逐される職種となることは直ぐに判りそうなものなのに。

ついでに言えば、文学や 芸術や経営など感性や経験がモノを言う職種は人工知能では代替できないという言い分があるが、これも「ぜひそうあってほしい」という可憐なメルヘンの範囲を出ない。では「人間の出番はどこにあるのか」という話になるが、実はこういう論の立て方自体が間違っている。人工知能ができない人間ならではの仕事を探すのではなく、人工知能の侵食から人間の仕事を意識的に、さらに言えば法律や規制で制度的に守ることが必要になるのだ。

そもそも人工知能の侵食によって仕事からあぶれ、無収入・低収入に墜ちた人々が充満した世の中に、効率的に生産された製品やサービスを大量投下したところで買い手はなく、つまり経済は回らない。人工知能による極度の業務効率化は終局的には企業経営層自身の首を絞めることになる。

ではどうすればいいのか。人間には人権があるが、人工知能には人権はない。これからの真にあるべき人工知能の「職場」は、いわゆる3K(きつい、汚い、格好悪い)業種に基本的には限定すべきだろう。つまり人間を肉体的・精神的苦行から解放する手段としてのみ人工知能を利用し、人間がすること自体を愉しみや悦びにあるいは存在理由にしている仕事や営みは、頑として人工知能の侵食から守る、という哲学が必要なのだ。

けれども、倫理のタガを嵌めた遺伝子工学生命科学がどうしたって抜け駆けを生んできたように、こういった「規制」をしたところでいずれ虚しく反古にされる成り行きになることは目に見えており、ついては今の趨勢で人工知能が発達した末に迎える世界は、個人的には悲観的様相に満ちたものとしか観ぜられない。

人間が自らが産み出した人工知能の「奴隷」として直面するであろう悲惨は「経済」と「軍事」においてもっとも先鋭的に顕れる。経済全般が株のロボット取引にようになり、軍事も人工知能を格納した無人機が戦場の主戦力になれば、一度取引や戦闘が始まったら人間ができることはディスプレイで戦況を固唾を飲んで見守るだけだ。

「なんだ、すべては機械に任せておけばいいのだから気楽なもんじゃないか」などと思う愚か者もおるまい。たとえ人工知能同士の戦いでも、その勝敗結果を引き受けるのは、いつだって生身の人間なのである。機械は情け容赦がない。経済においては敗者は完全に身ぐるみ剥がされ氷のような巷に打ち捨てられ、軍事においてはローマ軍に敗れた後のカルタゴのように民族や国家が消滅するまで収まらないだろう。(かつてのキカイダーのように人工知能に”良心回路”が組み込まれていれば別かもしれないが)

人工知能が意思を持ち、人間を支配する」ようなSFは実現しない。恐るべきは、人工知能が人間をやりがいのある職業から放逐したり、人工知能同士の戦いのツケが人間に回ってくる事態である。こういう未来に人間は対応できるのだろうか。自分にはそのイメージがまだうまくつかめないでいる。