神の存在証明

 小林秀雄の「常識について」というデカルト論の中に、「(デカルトは)神の存在についても証明して見せた」という一節がある。デカルトが神の存在をどういう論理で証明して見せたのかには触れず、こんな言葉がただポンと投げ出されるように置かれている。

神(キリスト教ユダヤ教が奉じるGODのこと)という得体の知れないものを、数学や物理の定理のように証明することがはたして可能なのかと自分は訝しく思ったが、デカルトは世界史上の偉人だから、きっと上手に説明したのだろうと思って、とくにその疑問に深入りすることはなかった。

その回答は二十年以上経ってから与えられた。たまたま先日読んだ本に、デカルトによる神の存在証明に触れた箇所を見つけた。それによるとデカルトのロジックは以下の通りらしい。

「神は人間を超えており、人間が備えているようなものはすべて備えている。人間は存在を持っている。ゆえに神も当然のことながら存在を持っている」

これを読んで「なるほどそうか。やっぱりデカルトはすごい」と感心するのは難しい。神学論につきものの濃厚なまやかしの気配がする。小林秀雄は本当にこの論理を承服したのだろうか。看過してはならないのは「存在する」という言葉の定義、つまり存在という言葉をどういう意味合いで使っているか、である。

人間や動物が「存在する」といえば、質量として計測可能な物理的に実在するという意味である。それを証明するためには、「人間が質量を持っているのだから、それを超える神がそれを持っていないはずがない」という迂路を持ち出す必要はない。直接、「神」という物質の質量を計測して数値や化学式として明示する以外の存在証明はすべて無駄だ。

しかし、「存在」という言葉は、「数値化が可能な物質として三次元あるいは四次元空間に、一定の面積や体積を占めている」という意味合いだけではない。世の中には、定義の仕方によって、存在したり存在しなかったりするものがたくさんあり、神もそのうちの一つだと観ることもできる。

定義にしかたによって、存在したり、存在しなかったりするものに、例えば「お金(マネー)」がある。「お金だったらコインや紙幣として実在してるじゃないか」と思われる向きもあるだろうが、では電子マネーや仮想通貨はどうか。これらは物理的に計測可能な物質として存在しているのだろうか。物質である以上、基本的には「質量保存の法則」が働いているはずだが、例えば電子マネーのデータが何らかの手違いで完全に消去されたとき、そのデータの「質量」はどこに「保存」されているのだろうか。

お金は「ひとびとの欲望の対象」「誰もがほしがるべき偶像」として規定されているものであって、物質的には実は存在していないのである。コインや紙幣は「お金」という約束事が手触りのある物質として応神した姿である。「コインや紙幣があるからお金は在する」という論理は、「大日如来の塑像があるから大日如来は実在する」という同じレベルの誤謬を含んでいる。

だからといって、「お金は実在しない」「お金など空想の産物に過ぎない」と言い切れる人もいない。よしんば思考実験としてそう結論づけた人がいたとしても、目の前に札束の山を置かれて「これをあなたにあげます」と言われればヨダレを垂らしながら受け取るの常だろう。

だからお金は確固として存在する。ただし、ここでいう存在とは「人間や動物や石ころが存在する」という時に使うような「物質的実在」ではなく、「社会的な記号」としてである。

このお金の存在のありようを敷衍すれば、「神」も存在する。人々が「神」の概念を共有し、それを崇敬することが社会的同意になれば、神は、常に社会状況の変化によってその価値を乱高下させるマネーよりも、確固たる強靱さでこの世に存在するということになる。